にっぽんの旅 関東 東京 月島

[旅の日記]

月島でもんじゃ焼き 

 本日は東京の下町の食べ物「もんじゃ焼き」を、食べに行きます。
東京メトロ有楽町線の月島駅で降りて、もんじゃの予約した時間まで周りをぶらつきます

 赤い欄干をもつ「佃小橋」の上に立つと、新旧の建物が入り混じりひとつの構図に収められた場所を見ることができます。
隅田川に続く船溜まりには船が寄せられ、岸には「日の出湯」が見えます。
 本日は東京の下町の食べ物「もんじゃ焼き」を、食べに行きます。
しかしその先の豊洲方向には高層のビル群が立ち並び、昔ながらの月島の町に頭を出しています。
これらの対比した文化が、この一角には同居しています。

 「日の出湯」の前を歩いて行くと、その先に「住吉神社」があります。
海の神様である「住吉神社」がこの地にあることが、以前はここが海に面していたことを物語っています。
以前この地には、「石川島」「佃島」と呼ばれる2つの島がありました。
1626年に徳川家光から旗本石川八左衛門重次がこの地を与えられ、ここに屋敷を構えたことから「石川島」と呼ばれるようになります。
また1645年には摂津国の佃村から江戸に移住した漁夫たちが、石川島近くの砂州に築島して定住することになります。
何故摂津の漁夫が江戸に来たかと思うところですが、本能寺の変で逃げ惑う徳川家康を佃村の漁夫が神通川に船を出し岡崎城に帰したことにさかのぼります。
その後家康は彼らを江戸に呼び寄せ漁業権を与えたことから、この地が漁業で栄えることになるのです。
故郷の佃村にちなんで、この地は「佃島」と呼ばれました。

 「住吉水門」を越え、隅田川の水を湛えた「佃公園」の脇には、「人足寄場跡」があります。
人足寄場とは、軽罪人の自立支援を目的として江戸幕府の設置した施設です。
それまでの罪人は、佐渡金山での労務が課せられていましたが、非常に厳しい労役を強いられていたため、更生し社会復帰させるための施設をここに設けます。
この制度は明治維新により廃止されてしまいますが、「人足寄場跡」がここにあったことを櫓の形をした建物が示しています。

 ここから大江戸線の勝鬨駅までを、隅田川に沿って散歩します。
そしてここには、佃島の漁師が生み出した食べ物があります。
海で採れた魚を悪天候時の食料として備蓄するために、そして出漁時の船内食とするために、小魚や貝類を塩や醤油で煮詰め保存食としていました。
そうしてできたのが、庶民の食べ物である佃煮です。
そういわれて町を眺めてみると、この辺りには佃煮屋が数多く並んでいることに気が付きます。

 さらに川沿いを歩いて行きましょう。
真夏の暑い時期ですが、川辺の涼しい風を受けて暑さが幾分か和らいだかにも思えます。
対岸には「水炊」の看板を掲げた広大な建物があります。
築地の老舗料亭で、川沿いに築かれた煉瓦の堤防が美しく見えます。

 その先に見えるのが「勝鬨橋」です。
江戸と佃島を結ぶ橋で、1940年に完成しました。
隅田川を通る船のために高架橋の検討もされましたが、建設費を抑えるために可動橋として建設されました。
ところがこれまでの船舶中心の交通手段から、船舶通航量の減少と高度経済成長で道路交通量が増大したことから、1970年の開閉を境に橋の開閉は停止され車優先の通行となりました。

 さて、そろそろ「もんじゃ焼き」を予約していた時間となります。
勝鬨と月島に間に広がる「もんじゃストリート」に向かいます。
通りの左右にはもんじゃ屋がずらりと並び、江戸っ子の腹を満たしてくれます。
キャベツなどの野菜を水分を多く含む小麦粉で溶き、鉄板の上に薄く延ばして焼きコテで食べるものです。
淵の焼けてきた部分をコテで鉄板に押し付けて、少し焦げた状態にして口に運ぶものです。
一度は食べたことがあったのですが、食べ頃が判らずにしばらくは食べに行くこともなかったのです。
今回は「もんじゃは美味しいよ」と進める言葉に推されて、再び食べてみることにします。
餅と明太子、それにチーズを付けたものを注文し、今回は最初は店の人が焼いてくれるということで、無事食べることができたのです。
今まで抱いていた「もんじゃ焼き」に対する印象を払拭し、美味しくいただけたのでした。

 
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