にっぽんの旅 関東 東京 日野

[旅の日記]

新選組の日野 

 今回降り立ったのは、JR中央線の「日野駅」です。
幕末に政府軍と激しく争った新選組の副長の土方歳三や6番隊長の井上源三郎らの出身地です。
言うならば新選組の故郷のようなものです。

 駅から最初に向かうのは、「日野八坂神社」です。
駅前の通りを東に進んでいきます。
祇園信仰の神社で、「牛頭天王社」と称されていました。
いまでも人は親しみをもって「天王様」と呼びます。
多摩川に洪水が起きた時に、数日に渡り夜に怪しい光が見えました。
老翁が拾い上げたところ金色に輝く牛頭天王の神像で、これを勧請し祠を建立して祀ったのが「八坂神社」の起源です。
1858年に近藤勇や沖田総司など天然理心流の門人らが奉納した額があります。
欅板に大小二本の木刀が架けられているということで、その写真を掲げた案内板が鳥居脇に掲示されています。

 さらに東に向かって歩きます。
そこには「日野本陣」が残されています。
甲州街道の日野宿であるこの地には、府中宿と八王子宿の間に位置し、大久保長安の手により整備されました。
「日野本陣」は土方歳三の義兄で新選組を支援した佐藤彦五郎の旧宅です。
佐藤彦五郎が開いた天然理心流の道場も、ここにありました。
この道場で剣術を教えていたのが近藤勇で、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助らの新選組メンバーとはこの道場で出会いました。
中に入ると、水色と白の新選組の羽織が飾られています。

 「日野本陣」の道向かいには、現在は図書館が建っています。
そして図書館の前で、「日野宿問屋場・高札場跡」の石碑を見つけました。
この辺りが日野宿の中心地で、江戸時代には栄えていたことが判ります。

 ではここから少し北側の住宅街に入っていきます。
「けんころ地蔵尊」ののぼりのある寺があります。
「普門寺」で、長寿地蔵堂にはお地蔵様が祀られています。
「健康に生きて、コロッと逝く」という願いを込めた名前だそうです。

 「欣浄寺」は、硯伝という僧が1620年に草庵をむすんだものを、増上寺の長老 超誉が1644年に再復興した八王子滝山大善寺です。
1873年には「欣浄寺」の境内に、「日野郷學」(現在の日野一小)が佐藤俊正達によって開かれます。
井上源三郎も、この寺小屋で学んだひとりです。

 さらに住宅地を回ってみると、その「井上源三郎資料館」があります。
一般の家の土地に1棟造り、そこが資料館のようです。
表札は井上さんでしたので、その子孫なのでしょう。
しかし日曜日しか開館しておらず、平日の今日は入ることができませんでした。
他にもこの近くには「佐藤彦五郎新選組資料館」や「土方歳三資料館」があるのですが、いずれも日曜日の開館です。
また日を改めて出直して来ることにします。

 次に訪れるのは「新選組のふるさと歴史館」です。
「日野本陣」とは共通券で、徒歩で15分ほどで行くことができるということです。
なるほど1kmの距離かと特に気にもしなかったのですが、思いのほか大変でした。
「新選組のふるさと歴史館」まで最後まで上り坂が続き、車なら楽々と着くのでしょうが歩いて行くには結構つらいものがあります。

 その歴史館では、新選組の目的と戊辰戦争までの動きが説明されています。
江戸時代末期の京都の治安維持のために組織された浪士集団である新選組は、尊王攘夷派の取り締まりや将軍警護などの任務を担ってました。
幕府により集められ会津藩の援護を受けて、新幕府軍との交戦に進みます。
新選組がその名を轟かせたのは、1864年の長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を襲撃に成功した池田屋事件からです。
しかし1867年の大政奉還から事態は急変します。
1868年から始まった戊辰戦争で、新政府軍との交戦が始まります。
近藤勇は新政府軍に捕われて処刑、沖田総司は白河口の戦い後に持病が悪化して江戸で病死、土方歳三は函館戦争で戦死してしまいます。
1869年に旧幕府軍が降伏することで、新選組も幕を引くことになったのです。

 さて帰りは拝島まで出て、西武鉄道で帰ることにします。。
天然理心流で精神と身体を鍛え、旧幕府の考えを信念に尊王攘夷派に反対した幕末の混乱を生き抜いた新選組の1日だったのでした。

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