にっぽんの旅 関東 栃木 佐野

[旅の日記]

ラーメンを食べに佐野へ 

 栃木e駅から電車で10分、佐野ラーメンで有名な佐野にやってきました。
東武特急「りょうもう」で快適に館林まで行き、そこで東武佐野線の各駅停車に乗り換えます。
東武佐野線は1888年に設立された「安蘇馬車鉄道」が前身で、後に「佐野鉄道」に改名します。
そしてそれを買収した東武鉄道は佐野鉄道が持っていた鉄道敷設免許を利用して館林駅から佐野駅の間に鉄道を1914に開業します。
日光までの経路に利用することが目的の買収そして佐野線の敷設だったのですが、その後に日光方面へは栃木ルートに変更になります。
置いてきぼりになった佐野線ですが、合理化のためのワンマン運転で今も生き残っています。
電車が佐野駅に到着したのは、陽が暮れてからのこと。
今晩は宿に泊まり、改めて明日佐野の街を巡ることにします。

 翌朝はまずは佐野駅の北側に向かいます。
ここに佐野氏が築いた「佐野城址」があります。
北条氏から養子を迎えていた佐野氏は、豊臣秀吉の小田原征伐では形勢が極めて不利で、佐野家の断絶の危機に陥ります。
しかし佐野一族の佐野房綱が豊臣秀吉に仕えていたため、房綱が当主に就くことで断絶を免れます。
房綱は豊臣氏近臣である富田氏から養子を迎え、佐野家の存続に工面します。
徳川方にとっても、家康のいる江戸城を牽制するために佐野家の存在を利用したのです。
関ヶ原の戦いによって徳川政権が成立したことによって、佐野家は再び窮地に追いやられます。
1602年には家康の意向を受けて、これまで佐野氏が居城としていた唐沢山城を廃し、山の麓に新らたに「佐野城」を築城します。
惣宗寺の跡地が新しい佐野家の本拠地になったのです。
同時に周りも城下町として整備されたのですが1614年に佐野氏が改易されたとともに、「佐野城」も廃城となったのでした。
今では「佐野山城公園」として整備され、市民の憩いの場となっています。

 それでは昔ながらの街並みが残る駅の南側を、歩いてみましょう。
駅南口を出て西側に5分ほど進んだ殿町通りとの交差点のところに、趣のある建物があります。
2階建ての立派な商家で、2階は一面のガラス張りの建物です。
「出桁造り」の商家が目につきます。
「出桁造り」とは軒下を長く張り出した屋根を腕木で支える造りで、由比で見た「せがい造り」のことです。

 ここから南に進み次に出くわす大きな通りは、日光例幣使街道です。
「小沼呉服店」は大正時代から続く呉服店の建物で、どこか懐かしさを感じます。
1888年に建てられた蔵造りの店舗で、屋根には古くからある看板が掲げられています。

 通りの反対に目を向けましょう。
「大坂屋」は「天明最中」を作る佐野の和菓子屋です。
その隣の家屋も、年季の入ったものです。

 その先の角には、「土佐屋」があるはずなのですが。
行ってみると、そこは空き地になっていました。
古い建物がまたひとつなくなっていく様子を、目の当たりにしたのでした。

 さらに歩くと、次の角には通りに沿って趣のある建物が3件並んでいます。
味噌饅頭の「新井屋」です。
敷地は奥まで続き、蔵が連なっています。
見世蔵造りの店舗は、歴史を感じさせます。

 次は、日光例幣使街道から直角に交わる江戸街道を南下します。
そこには、この辺りには珍しい洋館があります。
「小島邸」で、綿糸商の店舗兼住宅です。
1927年建築の木造タイル貼りで、腰折れ風の屋根を設けているのが特徴です。

 その斜め向かいには、広大な敷地をもつ「太田邸」があります。
呉服商を営んでした「太田邸」は、典型的な蔵造りの建物です。
道に面した店舗は、黒漆喰で仕上げられた外壁が歴史の重さを感じます。

 「小島邸」から日光例幣使街道に平行に走る通りを、西に向かいます。
そこには「寺岡邸」があります。
1928年建築の旧糸問屋です。
6年の歳月をかけ宮大工が建てたもので、関東一円から木材を集めて造った自慢の屋敷です。

 それでは佐野で食べてみたかったラーメン店に寄って見ます。
この地が誇る「佐野ラーメン」は、実は店ごとに味が違うのです。
透き通ったスープで手打ちの縮れ麺の店を選び、行ってみます。
店には行列ができていましたが、回転の速いラーメンですからほどなく店内に案内されます。
チャーシューが入った素朴なラーメンで、手打ちらしく不揃いな平麺がスープに浸かっています。
佐野ラーメンの麺は、青竹に脚をかけ体重で麺を延ばすことで有名です。
素朴ながらも味の良い、さすが関東有数のご当地ラーメンです。

 ここからは、「惣宗寺」に向かいます。
「佐野厄除け大師」のことで、テレビコマーシャルも流れていますので名前だけは聞き覚えがあります。
944年に奈良の僧 宥尊(ゆうそん)上人が開いた寺で、藤原秀郷が平将門降伏の誓願により、佐野の春日岡(現在の城山公園)に春日明神の社殿とともに寺を建てました。

「春日岡山惣宗官寺」として藤原一門の信仰も厚く、当時はたいそう栄えていました。
しかし平安時代も末期になると、次第に衰えてきます。
1602年に藤原秀郷から30代目に当たる佐野信吉公が、幕命の命により「唐沢城」を春日岡に移すにあたり、寺は現在地に移転します。
江戸時代には幕府からの信仰も厚く、寺社奉行も置かれ徳川家光も参拝する寺院となります。
また厄よけ元三慈恵大師が安置されていうことから、厄よけの寺として関東一円から参拝客が訪れてきます。

 さて「惣宗寺」を出て、その通りを再び東方向に歩いて行きます。
佐野駅の方向に戻る形になります。
「住吉神社」を越えて、その先の「カトリック佐野教会」に向かいます。
1953年にカナダ人のシャルボノ・ペトロ神父が建てた教会で、日本家屋が並ぶ佐野では異彩を放っています。
古さを感じない外観です。


 その先には「旧影澤医院」もあります。
1911年建築の木造2階建ての寄棟造りをした洋風建築です。
正面中央には、三角形状となるペディメントの装飾がなされている、手の込んだ造りです。
入口には「日本クリケット協会」の看板が掛かっており、休院後の現在はクリケット協会の事務所として利用されています。

 実はこの後、再び佐野にやってくることになります。
その時に訪れたうどん屋の料理も紹介しましょう。
「耳うどん」という佐野の名物です。
うどん粉を耳型に整え、具だくさんで食べるうどんです。
耳型のうどんは弾力があり、ツルツルと喉に流し込む普通のうどんとは違ったものがあります。
ゆずの皮も入り、適度な柑橘系の味と香りがさっぱりとしたうどんに仕上がっています。
寒い時期に、身体全体が温まる食べ物なのです。

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