にっぽんの旅 関東 神奈川 湯河原

[旅の日記]

湯河原 

 本日は、湯河原駅に立っています。
いつもは東海道線で通り過ぎる駅ですが、駅の名前が語るように温泉に入りに来ました。

 駅では、梅と椿が描かれた大きなのれんが出迎えてくれます。
駅前のロータリーとそこから続く通りが、商店街になっています。
その通りで、温泉地につきものの温泉まんじゅうを見付けました。
湯気を浴びたまんじゅうが、せいろの上で並んでします。

 温泉地は、駅から山側に2kmほど進んだところにあります。
途中、「五所神社」を通り過ぎていきます。
「五所神社」は、天智天皇の時代に加賀の住人二見加賀之助重行らの手によってこの地方が開拓された際、土肥郷の総鎮守として天照大神以下五柱の神霊が鎮座されたと伝えられています。
また1060年の源義家 奥羽征討に至っては、社家荒井刑部実継神霊の加護により軍功をたてます。
1180年の源頼朝が伊豆より挙兵の際には、この地方の豪族土肥次郎実平が頼朝の軍を土肥の館に導き、石橋山合戦進発の前夜に盛大な戦勝祈願の護摩をたいたといわれているのも、この社前だったのです。

 目指す温泉宿は、藤木川沿いの静かなところにあります。
宿に架かる橋の中央が、神奈川県と静岡県の県境がになっています。
そう、本日の昼の散策は神奈川県、寝泊まりするのは静岡県なのです。
それでは、温泉に浸かってここまでの旅に疲れを癒し、伊豆の魚料理でお腹を満たすことにします。
無気力な初日は、飲めや食えやの1日で幕を引いたのでした。

 気を取り戻して2日目は、本来の目的である湯河原探索に出かけましょう。
「五所神社」から続く通りを、「万葉公園」目指して歩きます。
周りには古くから続く煎餅屋、伊豆の魚をもとに作った干物屋、甘く柔らかいきび餅屋などが続きます。

 やがて落合橋のバス停の先に、赤い欄干の「万葉橋」が現れます。
湯河原観光会館の駐車場の入口で、うっかりすると見逃してしまいそうな橋です。
この奥に万葉公園へ続く道があります。

 小さなトンネルを抜けると、そこには滝を見上げる見晴台があります。
藤木川から分かれた千歳川の最初の滝を、真下から眺めることができます。
そして見晴台のトンネルの上に登ったところには、茅葺き屋根の「万葉亭」があります。
万葉時代の古代建築を模したもので、ここではお茶を頂くことができます。

 それでは、先に進みましょう。
ここから千歳川を上流に向かって「文学の小径」を歩いて行きます。
温泉街の中心にある「万葉公園」の中には、多くの万葉植物が植えられています。
万葉集の中でただ一つの出湯を詠った歌碑、国木田独歩碑があるのも、ここ湯河原の「万葉公園」です。
清流のせせらぎがする静かなこの小径には、蛍も生息してます。
初夏には「ほたるの宴」も開かれ、淡く光る蛍の夕べを楽しむことができます。

 そして、小径の終点には足湯を楽しむことのできる「独歩の湯」があります。
弘法大師が洗った「洗足」という行為を基に誕生した「独歩の湯」は、地理風水を応用して日本列島をイメージした9つの泉が園内に広がっています。

 それでは次は、万葉公園を見下ろす丘の上に行ってみましょう。
そこには、「熊野神社」があります。
「湯権現熊野神社」が正式名称で、「万葉公園」もかつては「権現山公園」と呼ばれていました。
「熊野神社」の由来など、判っていないことが多い神社ですが、温泉の神様として地元で親しまれています。

 さて「熊野神社」から車道を下って行った頃に、今回の最大の目的地である「光風荘」があります。
昭和の大事件として数えられる「2・26事件」の舞台となったところです。
1936年2月26日大雪の早朝、国家改造を目指す陸軍の青年将校が1400名余りの部下将兵を率いて、首都の中心地を占拠し軍や政府高官の官邸、私邸を襲うという日本近代史上未曽有のクーデータ未遂事件「2・26事件」を起きました。
この事件では、斉藤内大臣、高橋蔵相、渡辺教育総監や護衛の警官が犠牲になります。
クーデターの多くは東京で起こりましたが、東京以外の唯一の現場が湯河原のここ「光風荘」なのです。
当時、老舗旅館伊東屋の元別館である「光風荘」には、前内大臣の牧野伸顕伯爵が静養のため、家族、使用人とともに滞在していました。
天皇側側近として国政の中枢にあってリベラルな考え方で政官財界に影響力をもっていた牧野伸顕ですが、急進的な青年将校たちからは天皇の判断を誤らせる「君側の奸」と見なされ、襲撃の対象になっていました。

 2月26日早朝、東京から雪の湯河原に着いた河野壽大尉以下8名の別動隊は、牧野伸顕の滞在する「光風荘」を台所から入り急襲し、当直の護衛官である皆川義孝巡査と銃撃戦の末殺傷し、「光風荘」を放火炎上させます。
一方、暗殺の対象となっていた牧野伸顕は、地元消防団員の活躍で脱出し事なきを得ました。
河野壽も部下の下士官とともに重傷を負い、熱海陸軍衛戍病院に収容されますが、差し入れの果物ナイフで自決してしまいます。
「光風荘」この痛ましい事件の現場であるとともに、激動の昭和史を物語るときに忘れてはならない遺物なのです。
建物では、ボランティアの方が当時の様子を資料とビデオで紹介してくれるのでした。

 湯河原の旅はこれで終わりと言いたいのですが、忘れてはならないのがこの地の名物です。
B級のご当地グルメと言えば「坦々焼きそば」です。
ビリカラの焼きそばは、乗っている温泉卵の黄味の程よい甘さと合いまり、食が進みます。
昨晩の海の幸にも劣らない、極上の味です。
そしてお土産はミカンの形をした饅頭、こちらもミカンのオレンジ色がいっぱいのお菓子だったのでした。

旅の写真館