にっぽんの旅 関東 群馬 富岡

[旅の日記]

富岡製糸場 

 本日は、群馬県富岡の散策です。
小学校の社会でも習う、富岡製糸場のある所です。
今も残る富岡製糸場を、訪ねることにします。

 高崎駅からは、上信電鉄で向かいます。
2両編成のローカル線で、大きな駅以外は無人駅でワンマン運転ですから、運転手の脇のドアしか開きません。
畑の中を単線の電車が、突っ走ります。
上州富岡駅は、高崎から7駅目。ここでは、全車両の扉が開きました。

 富岡製糸場は、現在世界遺産への申請をしているところ。
競合には日本を代表する富士山などが立候補しており、結構厳しい争いなのです。
駅を降りると、そこは普段と変わらない静かな田舎の商店街です。
富岡製糸場の大きな看板が建っているでもなく、普通の姿を保っていると知ってホッとしました。
地図を片手に、製糸場に向かいます。

 駅から5分は歩いたでしょう。
道の正面に煉瓦造りの多いな建物があることに、気が付きます。
門を入り、守衛室のような券売場で入場券を買います。
1時間おきに説明しながら場内を案内してくれるツアーがあるのですが、本日は最終のツアー時間も過ぎ自分で廻ろうかと思っていた矢先の出来事です。
年輩の方が「どこなら来たの?」「もう1人揃えば説明してあげる」と声を掛けてきます。
しめたもんだと、東繭倉庫に作られた待合室でストーブに当たりながら待つことにします。

 15000坪の敷地内には、繰糸場、倉庫、寄宿舎などが今も残っています。
説明は、最終工程である乾燥場から始まります。
乾燥した繭を、輸送のために積み下ろしする場所です。
さらに、このために作られた蒸気釜所とその煙突を眺めます。
今出てきた東繭倉庫と向かい合うようにして、先には立派な煉瓦造りの西繭倉庫があります。
両倉庫共、事務所や作業所そして貯蔵庫として利用されていました。

 再び工場の入口に戻り、女工館を外から眺めます。
ここは糸織りの指導をするフランス人女性教師の住居だったところです。
建設に当たっては尺貫法ではない図面を渡され、当時の大工は苦労させられたということです。

 さていよいよ操糸場に入ります。
東繭倉庫と西繭倉庫をコの字型に結ぶ、長さ140mの工場です。
操業当初は、300釜の操糸器が設置されていました。
今は日本のが明し完全自動化を果たし、最後まで使われていた自動操糸器が並んでいます。
ところがこの画期的な機械が後に海外でも使われ、海外の安い製品に日本の製糸産業が敗退していったという、実に皮肉な結果をもたらしたのでした。

 製糸産業と言えば、野麦峠の女工哀史の話を思い起こします。
安い労働力として若い女性を働かせ、山奥の工場で自由を奪われ、働き続けて病気になって捨てられるという悲しいお話です。
今日までは、この富岡製糸場もそういうものだと思っていましたが、大きな間違いをしていたことに気が付きました。
ここ富岡は国営の製糸場で、貴族の娘が来て働き、たいそう良い待遇だったということです。
とはいえ、工女の募集には大変苦労したそうです。
フランス人がワインを飲む姿を、人の生血を飲んでいると噂が立ち、製糸場に行けばフランス人に食べられると言われたからです。
そんな中、なんとか明治5年10月4日に3カ月遅れで操業が開始され、その後115年に渡って動き続けました。
工場にずらりと並んいる操糸器が、これらの歴史を物語っています。
 操糸場の隣には、フランス人の指導者ポール・ブリューナが家族と暮らしていたブリューナ館が、今も残っています。
そしてその奥には寄宿舎、通路の下には当時初の下水道が残っています。

 思いのほか、富岡製糸場で盛り上がってしまい、時間の経つのを忘れてしまいました。
この先の駅まで行く時間もなくなり、ゆっくりと富岡の街を眺めて歩きます。
製糸場から上州富岡駅までのちょうど中間地点に、諏訪神社があります。
真っ赤な鳥居に引き寄せられるようにして中に入ってしまいます。
ちょっと寄り道して、再びローカル線で高崎まで揺られて帰ることにします。

※ 富岡製糸場は、2014年に世界文化遺産に登録されました。

旅の写真館