にっぽんの旅 関東 群馬 沼田

[旅の日記]

真田の里 沼田 

 群馬県の沼田に来ています。
かつては真田信之が支配した沼田を、本日はゆっくりと探索してみます。

 JR上越線の沼田駅前ロータリーには、天狗の像があります。
実はこの後も天狗を目にすることになるのですが、この時は単なるモニュメントとして見過ごしていたのです。
いたって普通の駅前の風景です。
ここから市役所のある市街地を目指し、東へ歩いて行くことにします。

 市街地に近づくにつれて、上り坂が急になります。
河岸段丘が拡がる沼田です。
河岸段丘とは、平地と崖が交互に連続する階段状になった地形のことです。
「瀧坂」と呼ばれ、途中からは車道と歩道が分かれています。
歩道は旧道で、屋根の付いた階段です。
階段を上りつけると、そこからは坂道が続きます。
息を切らせて上る横から。高校生が楽々と追い越していきます。
悪戦苦闘してやっと登り切った時に後ろを振り返ると、はるか下に沼田の駅が見えています。
上り北満足感が、沸々と湧いてきます。

 それでは、ここから「正覚寺」に寄って見ます。
ここは、真田信之(信幸)の正室で徳川家の重臣本多忠勝の娘である小松姫が眠っています。
関ヶ原の戦いで、豊臣方に付いた父 昌幸、弟 信繁(幸村)に対して、徳川家の妻をもつ信之は徳川方に付きます。
その上田への帰りで沼田に立ち寄った父と弟に対して、沼田城への入城を拒んだ小松姫の話は有名です。
また「正覚寺」には、入母屋造の立派な山門があります。
1860年の建造で、ケヤキの素木造で彫刻が見事です。

 再び市街地の通りに出ます。
東に進むと、歩道の脇に大きな岩が立っています。
「天王石」で、真田信之が1590年に沼田城主となった時に市場を開かせるために天王の宮社殿を築きます。
1611年に信之が沼田城の改築に当たり社殿を中町(今の「須賀神社」)に移す際に、旧宮地の印として石を置い祀ったのが「天王石」です。

 町の至る所に、「真田の里」の旗がひらめいています。
そこで沼田の名物である「味噌まんじゅう」を見付けました。
早速買うことにします。
店内には椅子と机が準備されており、焼き立てのまんじゅうを頂くことができます。
見た目以上に大きなものです。
モチモチの食べ物を思い浮かべますが、まんじゅうの生地はカステラのような軽いものです。
そこに味噌の塩気と甘みが加わり、小腹がすいた時にちょうど良い食べ物なのです。

 通りには、レトロな外観をした洋風の建物があります。
「旧沼田貯蓄銀行」で、1908年に建てられた木造2階建ての寄棟造桟瓦葺きの建物です。
1934年まで銀行として使われていました。
2016年にこの地に移され、修復されたうえで保存されています。

 その先には「天狗プラザ」と呼ばれる小屋があります。
中には幅2.3m、高さ4.3mの大きな天狗の面が飾られています。
花の高さは2.9mもあります。
天狗のお山として知られる「迦葉山弥勒寺」に奉納されている天狗面とともに、「天狗みこし」で使われるものです。
沼田駅前にあった天狗像は、この天狗だったのです。

 ここから北に進路を変え、「天桂寺」に向かいます。
「天桂寺」は真田信之が眠る寺です。
本堂の屋根の上には、真田家の家紋「六文銭」が刻まれいます。
その途中に、道の隅に水が勢いよく流れています。
これは水の少ない沼田に、10kmも離れた山奥から用水を築いて水を引いたものが、今も残っているのです。

 それではこの辺りで、昼食にします。
せっかく沼田に来たのですから、「だんご汁」を食べて帰らなければなりません。
野菜やきのこの汁の中に、一口大の小麦粉を固めただんごが入っています。
モチモチとした弾力のある歯応えが美味しい食べ物です。
そしてそれにも増して気に入ったのが、群馬県が誇る「こんにゃく」の刺身です。
手作りの「こんにゃく」を、酢味噌をつけて頂きます。
上品な味で、ペロリと平らげてしまいました。
「だんご汁」といい、「こんにゃく」といい、満足のいく一品でした。

 食後は、沼田の街並みを散策して「旧沼田城」を目指します。
町には古い建物が残されており、趣のある蔵も見ることができます。
周りをキョロキョロ眺めながら歩いて行くと、「神明宮」の鳥居が見えます。
そして鳥居の横では、常夜燈が今も残されています。

 そしてその先の沼田小学校は、立派な門をもつ小学校です。
元々小学校の校庭付近が沼田城の大手門のあった場所に位置するため、「冠木門」が再現されています。
堂々としたこの門の先にある広い校庭を、見渡すことができます。

 小学校の横をさらに進んでいきます。
その先にあるのは、「沼田城址公園」です。
沼田万鬼斎顕泰が1532年に築いた城です。
その後は北条氏や上杉謙信などが沼田を治めますが、北条征伐の戦後処理として1590年に、真田信之が沼田城に入城して城郭整備の取り掛かります。
1600年の関ヶ原の戦いで東軍についた信之は上田領も継承し、沼田と合わた上田藩を立藩するに至ります。
引き続き沼田城を本拠としていた信之は、ここに5層の天守が築いたのです。
1615年の大坂夏の陣で上田に本拠を移したときには、長男 信吉に沼田城を受け渡します。
沼田の歴史を語るうえで、この信之の功績なしでは語ることができないほど、真田の町として認識されているです。
公園内には、再建された鐘楼が顔を覗かせています。
また公園の片隅に石垣がひっそりと残されており、当時を知ることができるのです。

 公園にはそれ以外にも、2つの建物が移築されています。
そのひとつは、切妻造りの和風建築をした「旧生方家住宅」です。
17世紀末の町屋で、沼田藩御用達の薬種商であった生方家の建物です。
薬種商を示すために家の前に建てられていた看板が、今でも残され無造作に置かれています。
町の中心である上之町にあったものを、保存するために公園に移築したものです。

 もうひとつの建物は、「旧土岐家住宅洋館」です。
土岐家は江戸時代に沼田藩主を家系で、建物は東京渋谷にあったものです。
土岐家住宅のうち、文字通り洋館部分をここに移築しました。
1924年建設の木造3階建ての建物で、外観はアーチ窓を配した洋館ですが、内部には和室を有する日本的な造りです。

 そして最後に立ち寄るのが、「榛名神社」です。
「沼田城址公園」からは、坂を転がるように10分ほど下りたところにあります。
1529年に沼田万鬼顕泰が建立した神社で、その後の1615年には真田信之が再建しています。
「榛名神社」には寶高大明神とされる倭建命が祀られており、沼田一帯の総鎮守でした。
沼田、真田、本多、土岐氏といった、代々城主の崇敬を受けてきたのです。

 こうして巡り終えた沼田の町ですが、昌幸とその子の信之、信繁といった真田家が反映していた当時を知ることができます。
そして真田の家系を残すためにひとり徳川方に付いた信之の居城でもあり、複雑な信之の胸の内を察するに心が痛むところでもあります。
そんな真田家を凌ぐ沼田の町を散策したのでした。

   
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