にっぽんの旅 関東 千葉 流山

[旅の日記]

新撰組と流山 

 本日は、千葉県流山の旅です。
今でこそ近くに常磐自動車道路や筑波エクスプレスの通る流山ですが、私の知っているのは東武野田線からは遠く、常磐線各停しか止まらない馬橋駅から乗り換え総武流山電鉄(今の流鉄)でしか辿り着かない流山の時代です。
実は、馬橋駅にポツリと停車している「流星号」にあこがれ、いつかは乗ってみたいと思っていたものの、結局乗れず仕舞いで千葉から引っ越したのでした。
流線型の丸みを帯びた先頭車と、テレビアニメのスーパージェッター愛用の未来の乗り物の名称が、流山電鉄を頭の中で幻想に近い素晴らしい乗り物に変えていったのでした。
今回その機会がやっと巡ってきましたので、これぞとばかりに流山に向かったのでした。

 流鉄の馬橋駅は、今も変わらずガラッとしたホームで、時折横を走る常磐線の音が聞こえ着てきます。
ICカード全盛のこの時代に切符は相変わらず紙のものであるにも関わらず、改札は開いたままで誰もいません。
電車が来るまでホームで待ってみましょう。

 やってきた電車は、青い色をした流馬号です。
流電では、電車ごとに愛称がついていて、先ほどの流星号もそのひとつです。
車体はそれぞれに色分けをされており、青色なら流馬号っていうことが一目でわかります。
それでは、馬橋から流山までの5駅5.7kmの小旅行です。

 単線の電車は、昔と違ってビルの間の狭い隙間を抜けて行きます。
といっても、最初の1〜2駅ほどのことですが。
それを過ぎると、イメージしていた田舎の電車に姿を変えます。
ただし東京のベットタウンとして開発が行われていたこともあって、周りは立派な住宅地に変貌しています。
周りを眺めていると、終点の流山駅にはあっという間に着いてしまいます。
流山駅では、流星号となのはな号が車庫に待機していました。

 流山は、明治の時代には葛飾県庁が置かれた町です。
かつては江戸川や利根運河を利用した水運で栄え、みりんの製造でもその名を全国に知らしめました。
そんな流山を、歩いてみます。

 駅前の西側には、「新撰組流山本陣跡」があります。
江戸時代末期の尊王攘夷・倒幕運動運動に伴い、京都の治安をこれまでの京都所司代と京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、京都守護職を新設します。
その配下の実践部隊であった新撰組は、尊王派と衝突を繰り返します。
反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事した武装組織です。
農家 宮川久次郎の三男として生まれた勝五郎(後の近藤勇)も、そのなかのひとりでした。
京都見廻組が幕臣で構成された正規組織であったのに対し、新撰組は浪士で構成されたが故に、商家から強引に資金を提供させたり、規則違反者を次々に粛清するなど、過激な行動も目立ちました。

 1867年に将軍 徳川慶喜が大政奉還を行い、新選組は旧幕府軍に従って戊辰戦争に参加するものの、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗北し江戸へ撤退します。
戦局の不利を悟った隊士たちが相次いで新撰組を離脱するなか、甲州勝沼の戦いでも敗北してしまいます。
再起をかけた近藤勇と沖田総司が移り着いたのが、ここ流山だったのです。
つまり、新選組の近藤勇が最後に陣営を敷き、自首をした地です。

 「新撰組流山本陣跡」の隣には、「閻魔堂」があります。
閻魔大王の座像が、堂内に安置されています。

 その北側には、1326年に松本坊日念上人により開山したといわれる「常与寺」があります。
「常与寺」の境内には、市立流山小学校がありました。
また、現在の千葉大学文学部の発祥の地であり、前身の「印旛官員共立学舎」があったことを示す碑が建っています。

 旧本通りを、北に向かって進みます。
「丁字屋」は、古民家を改造して造ったイタリアンレストランです。
そもそも「丁字屋」というのは、1923年に建てられた足袋屋の屋号です。
レストランとなった今は、自家製生パスタや窯焼きピッツァが自慢だそうです。

 「浅間神社」は、江戸時代初期に創建されました。
富士塚は高さ6mにもおよぶ本格的なもので、社殿後方に溶岩を用いて築かれています。
この神社の境内裏手は、幕末に新政府軍が仮本陣を敷いたことでも有名です。

 「浅間神社」とは道向かいにあるのが、「呉服新川屋店舗」です。
1846年創業の老舗で、今の建物は1890年に大工 土屋熊五郎によって建てられたものです。
北側の鬼瓦は恵比寿さん、南側は大黒さんが表されています。
江戸川沿いの流山は、水運業や酒、みりんの醸造業で栄え、多くの商家が軒を連ねていました。
そのうちのひとつが、ここ「呉服新川屋店舗」なのです。
土蔵造りの壁は分厚く、表には漆喰が塗られて、今に姿を伝えています。

 ここから、江戸川の土手に上がってみましょう。
対岸は埼玉県、広い河川を水がゆっくりと流れています。
「矢河原の渡し跡」に、標柱が立っています。
新政府軍の包囲に屈した新選組の近藤勇は、流山の町が戦火になることを憂い、ここから単身出頭します。
囚われの身となり板橋刑場で斬首される近藤の、最後の場となりました。

 さて、江戸川から旧本通りに戻ってきたところに、「流山あかり館 彩(いろどり)」はあります。
美濃和紙などを用いた照明器具や、和紙小物が、並んでいます。
もともと乾物屋を営んでいた商家を改築し、古民家風の商店兼観光名所にしたものです。

 ここからは、流山駅前の「流山街道」を南に進んでいきます。
キッコーマンの流山工場を過ぎ、平和台駅を越えた辺りにあるのが、「長流寺」です。
江戸時代に創建といわれる浄土宗の寺院です。
そしてその先に、「一茶双樹記念館」があります。
江戸時代の俳人 小林一茶と、流山で醸造業を営みみりん醸造創設者のひとりである五代目秋元三左衛門の記念館です。
一茶は流山を第二の故郷としてこの地を気に入り、数十回も訪れています。
こうした中、俳号を双樹という秋元三左衛門は、一茶と交友がありました。
記念館は、秋元本家と双樹亭、一茶庵を公開しています。
訪れた時は、双樹亭には一般から寄せられた詩がびっしりと並べられていました。

 「一茶双樹記念館」から2〜3分南に歩くと、「光明院」があります。
真言宗宗豊派の寺院です。
先ほど訪れた白みりん醸造の創業者である秋元家の墓地も、ここにあります。
その隣には鳥居があり、その前に長さ10mの巨大なしめ縄が飾られています。
この先の小高い丘の上へ続く石段を登ったところに、「赤城神社」があります。
かつての洪水の際に、群馬県の赤城山の一部がここに流れ着き、以降この地方が「流山」と呼ばれたということです。

 そして今日の最後は、近代的な鉄筋構造の「流山寺」脇の江戸川の堤防を登り切ったところにある、「丹後の渡し跡」です。
公営の渡しで、新撰組が流山に入ってきたときにもここから上陸したと言われています。
江戸川の今ののどかな流れからは、尊像できない変動の幕末の様子を、新撰組足跡をたどって少しでも理解できたような気がします。
平和台駅からは、再び流電に揺られて帰ったのでした。

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