にっぽんの旅 北陸 富山 富山

[旅の日記]

富山の薬売り 

 北陸の富山にやってきました。
来年の北陸新幹線の開業に向けて試運転車両が走る中、JR富山駅は工事の真っ最中です。
駅前には、「越中富山の薬売り」で有名な薬売りの銅像が建っています。
今回は薬の街巡りですが、それは明日に取っておいて、今日は富山の名物を食すことにします。

 富山と言えば、白エビ、ホタルイカ、寒ブリ、紅ズワイガニ、それに旨い酒でしょう。
早速手頃な居酒屋を見付けて、入ってみます。
海の幸をつまみに、富山の酒を並べた利き酒セットを頼みます。
メニューを見ていると鯛めしも気になります。
「注文から40分かかります」の文字を見て、これも早速頼みます。
小鍋に火が付くと、目の前に3つのおちょこが並びます。
それぞれに味のある富山の酒蔵が造ったお酒です。
ホタルイカを摘みながら、お酒がすすみます。
周りのテーブルでは宴会も始まり、それにつられてこちらもお酒がまわってきました。
腹いっぱい食べて、明日に備えたのでした。

 翌日は、食べ過ぎに対して朝からちょっとだけ動きます。
「神通川」まで散歩です。
「神通川」は、岐阜県の「宮川」に始まり、ここ富山県を流れる一級河川です。
遠く先には、建設中の北陸新幹線の鉄橋も見えます。
「神通川」といえば、三井金属鉱業神岡事業所による鉱山の製錬に伴う未処理廃水によって、下流域の富山県で発生した日本初の公害病であるイタイイタイ病という、苦い過去があることでも有名です。
一方、旧神通川は富山城のそばを流れ、今は「松川」を名前を換えて桜の名所になっています。

 さて富山の市街地を巡る前に、富山地方電鉄に乗って東新庄まで行きます。
わずか7分の乗車ですが、単線の富山地方電鉄にとって30分に1本の電車の時間に合うかどうかが、すぐに着くかどうかを大きく左右します。
東新庄駅の北側、「新川神社」を越えたところに「金岡邸」はあります。
「金岡邸」は、江戸末期より続く薬種商です。
薬種商とは薬の卸業者のことで、邸内ではまず入ったところに当時の店舗の様子が、その奥には薬の原料や製造のための「薬研」や「石臼」が展示されています。
薬種商で莫大な富を築いた金岡家は、歴代の人物が政界や産業界に進出しています。
家祖金剛寺屋又右衛門の子 金岡又右衛門は衆議院議員を経て北陸電力や富山軌道を、2代目又左衛門は富山合同無尽(現富山第一銀行)、3代目又左衛門はテイカ製薬や富山女子短期大学、さらには富山相互銀行を、5代目金岡幸二は富山計算センター(現インテック)や富山国際大学を、6代目金岡祐一は北大教授を歴任し、テイカ製薬と第一製薬の合併を、弟の金岡純二は富山第一銀行をそれぞれ設立し、富山の産業復興に寄与していきます。
「富山ブラック」とは、真っ黒なスープのご当地ラーメンのことです。

 再び富山に戻った時には、昼時です。
この地方のB級グルメである「富山ブラック」を頂きます。
富山大空襲の復興事業に従事していた食べ盛りで汗をかく若者の腹を満たすためにと、塩分補給を目的として醤油を濃くしたスープのラーメンを作りました。
味が濃いのは、ご飯のおかずとして麺を食べるからです。
そういう謂れからきた「富山ブラック」ですから、しょっぱくて食べられない、旨くないとの感想もよく聞きます。
そんな中で見た目は黒くても、前評判で味のいい店を探して行きます。
おかげで見た目は黒くても、魚介のたっぷり入ったコクのあるスープに秘伝の魚醤が合わさり、あっさりした味に仕上がっています。

 腹も満たされ、駅前ビルに「くすりのミュージアム」に寄ってみます。
ここでは、家庭に置いた薬を富山の薬売りが定期的に補給しに行くための家庭箱が展示されています。
隣には薬膳カフェも設置されています。

 ここからは、路面電車の1日フリー切符を買って、いよいよ富山の市街地を巡って行きましょう。
最初に立ち寄ったのは、「富山城」です。
「千歳御門」から敷地内に入って行きます。

 越の国は、645年の大化の改新以降、越前、越中、越後に三分割されて、越中国となります。
中世になると、1183年に源平の倶利伽羅峠の戦いや、1467年の越中国守護の畠山持国の養子と実子の相続争いに端を発する応仁の乱、そして真宗本願寺派の寺を拠点にした一向一揆など、不安定な情勢が続きます。
1543年には、神保長職が「富山城」を築城し、ここから椎名氏との越中大乱が始まります。
1578年の月岡野の戦いで織田軍が上杉軍を撃破し、その後の1581年には上杉討伐と称して織田信長の配下である佐々成政が一向一揆を平定にかかります。
ところが1585年には豊臣秀吉が佐々成政を攻めて降伏させ、越中国を前田利長に与えます。
江戸の時代に入るとこの地方も平静を取り戻し、1639年に前田利次を初代藩主とした富山藩が誕生します。
そして、明治の廃藩置県で今の富山県が生まれることになるのです。

 天守は「富山市郷土博物館」として、復元されました。
同じ敷地には「佐藤記念美術館」もあり、絵画・墨蹟・陶磁器などが展示されています。

 「富山城」の北隣には、東西に「松川」が流れています。
旧神通川で、「富山城」の天然の外堀になっています。
桜の時期ともなれば大賑わいのこの場所ですが、普段でも観光船が走っており、7つの橋をくぐって富山を巡ることもできます。

 それでは「松川」沿いに「桜橋」まで歩きます。
途中、川辺のガス灯を眺めながら、「桜橋」から路面電車に乗り込みます。
電車は西町駅を越え広貫堂前駅まで、車の間を縫って走るレトロなチンチン電車を味わいます。

 「松川」の近くに、「富山市役所」があります。
市制施行100周年を記念し1992年完成した近代的な市役所は、その最上部に展望塔があります。
早速エレベータで登ってみることにします。
北には富山湾、そして東には立山連峰が広がります。
この景色が無料で見ることができるのですから、これも驚きです。

 広貫堂前駅には、駅名が示す通り「廣貫堂」本社があります。
1639年に加賀藩から分藩した富山藩は、財政面でも加賀藩に依存しない経済基盤をつくるために、売薬商法を確立させていきます。
置き薬を取り換えていくというユニークな行商が支持され、薬と言えば富山と言われるまでになります。
なかでも有名なのが、「反魂丹」という万病に効く薬です。
この薬のおかげで、富山は薬に関しては不動の地位を手にします。
ところが明治になって日本に西洋医学が入ってくると、効能別に使い分ける洋薬に対して生薬を中心に何にでも効くとしたこれまでの日本の薬は、胡散臭ささえ覚え、ついには政府から薬の販売を差し止められます。
漢方医学の廃止とともに、富山売薬は苦境に立たされます。
それに輪をかけて、1914年には売薬の資格制を定めた「売薬法」、1943年に医薬品製造を許可制とする「薬事法」が施行されたことで、これまで個別に行っていた薬品製造が組織化されます。
「廣貫堂」は富山で最初の医薬品企業として創業したのです。

 「廣貫堂」の会社の敷地内に「廣貫堂資料館」があり、富山売薬の歴史が語られています。
そして中国の漢方とは違い、日本の和漢薬は生薬から成分を抽出しより西洋薬に近い科学的ななものでありながら、自然の生薬を利用していることへの取り組みが説明されています。
帰りには真っ黒な粒の和漢薬を試飲できるのですが、これを1粒口に含んだだけで、口全体に苦みが広がります。
お茶が準備されているのですが、そう簡単に苦みが取れるものではありません。
「良薬は口に苦し」なのでしょうか、なんとなくその後の足取りが軽くなった気はするのですが・・・

 ここから北の方向に「西町」まで歩いて行きます。
「大法寺」では、立派な山門が迎えてくれます。
「本陽寺」では、境内の一角に古代ハスが栽培されています。
古くからの飴屋さんもあります。
薬の苦さを和らげるために、発達した飴で、今なお残る口の中の苦さに、ぴったりです。
近代的な鉄筋の建物になってしまった「富山寺」は、この地方が富山と命名するきっかけになった寺です。

 「西町」の「平和通り」沿いに、「池田屋安兵衛商店」はあります。
写真を見た時にこの伝統的な佇まいに引かれてやってきたのですが、ここも薬屋でした。
さすが薬の街です。
ここでは、丸薬の実現・製造体験ができます。

 そしてそのそばの交差点には、「富山市ガラス美術館」があります。
斬新な建物は、建築家の隈研吾の作です。
「ガラスの街とやま」を目指す富山は、市が集めてきた現代ガラスの数々が展示されています。
デイル・チフーリ氏の針のように尖ったり、ボールのように丸い形のガラスが色付けられています。
同じ階には図書館も併設されており、智を提供する場所です。

 さて、これで富山の旅も終了で、帰らなければなりません。
最後に食べておきたかったものを、弁当として買います。
富山の「鱒ずし」です。
数種類の銘柄がありますが、普段食べられない銘柄を選びます。
帰りの車内で蓋を開けると、甘酸っぱい臭いが漂います。
包んである笹をひとつひとつめくっていくと、鮮やかなオレンジ色の鱒が敷き詰められた弁当が姿を現します。
鱒とシャリの合わさった味は、まずい筈がないでしょう。

 土地のものを食べて、それ以外はほぼ薬だけのテーマで一日を楽しむことのできた富山だったのです。

     
       
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