にっぽんの旅 北陸 富山 高岡

[旅の日記]

鋳物と大仏の高岡 

 富山と金沢の中間地点、北陸新幹線も停まる高岡にやってきました。
本日はそんな高岡を、散歩してみます。

 駅前ロータリーには、「大伴家持像」があります。
何故高岡に大伴家持かというと、奈良時代に高岡には国府が置かれていました。
そしてそこに746年に国守として赴任してきたのが、「大伴家持」だったのです。
「大伴家持」は、越中の美しい自然を数々の歌で詠み、万葉集として残しています。

 そして「大伴家持像」から通りを挟んだ「ウイングウイング高岡」の市立図書館前に、「ドラえもん」の銅像があります。
ドラえもん、ドラミちゃん、のびた などのドラえもんキャラクタが勢ぞろいしています。
藤子不二雄のひとり、藤子F不二雄(藤本弘)は高岡出身の漫画家なのです。
藤子不二雄A(安孫子素雄)とともに高校時代にここ高岡で知り合い、コンビを組んで藤子不二雄と称するコンビ名でデビューします。
その後、藤子不二雄は解散するのですが、彼が残した作品はあまりにも有名で図書館の一角に「ドラえもん文庫」が作られています。
藤子F不二雄は、「オバケのQ太郎」「ドラえもん」「パーマン」「ウメ星デンカ」「キテレツ大百科」「21エモン」「ジャングル黒べえ」など、数えるときりがないくらいの数多くのヒット作を残しています。

 それでは、ここから路面電車の「万葉線」に沿って「昭和通り」を歩いてみます。
高岡一番の繁華街で、そのなかを「万葉線」が走っていきます。
片原町の交差点で電車は右に大きく方向を変え、ここから先は電車のない道路を歩くしかありません。

 やがて左手にレンガ造りの建物が見えます。
ここは「赤レンガの銀行」と呼ばれる「富山銀行本店」で、1914年に「高岡共立銀行本店」として建てられたものです。
東京駅の設計にあたった辰野金吾の監修を受けて、清水組の田辺淳吉が設計したものです。
県内唯一の本格西洋建築で、現役の銀行として使われています。

 そして「レンガの銀行」の向かいには、「高岡御車山会館」があります。
豊臣秀吉が後陽成天皇を聚楽第に迎え奉るときに使用した御所車を、加賀藩祖前田利家が譲り受けます。
2代前田利長は1609年に高岡城を築く際に、町民に与えたのが「高岡御車山祭」始まりとされています。
御車山は御所車に鉾を立てたもので、先頭に傘を立てたように円形に飾りが施されています。
ここでは、「高岡御車山祭」で使われる御車山が展示されています。

 「昭和通り」をさらに進んでいきましょう。
「千保川」に架かる「鳳鳴橋」には、橋の中間部に金色の2体の鳳凰像が向かい合って立っています。
上流側が雄、下流側が雌の鳳凰です。
橋を渡り切ったところは鋳物の生産が盛んで、鳳凰もここで造られたものです。
彫刻家 富永直樹による作品です。

 加賀藩2代藩主の前田利長は、町づくりのために河内国丹南町(現在の堺市)から鋳物師7名を招き、砺波郡西保金屋(現在の高岡市戸出西部金屋)に住まわせます。
その後も鋳物師を集め、11名で鋳物場を開設します。
これが高岡に鋳物産業が広まった所以です。
その間、鉄器の生産から次第に銅器を取り扱うようになってきました。

 それでは、そんな高岡鋳物の歴史を語る「高岡市鋳物資料館」に寄ってみましょう。
資料館は1部屋だけのこじんまりとしたところですが、入ればまず鋳物製造のDVDが映し出されます。
そのあとは展示されている鋳物を、解説交じりで見て回ります。

 「高岡市鋳物資料館」前には、鋳物師町として栄えた街並みが今も残されています。
金屋町には千本格子をもつ風情のある建物が並んでいます。
道路にも御影石を使った石畳が敷き詰められて、街並みを保存するための整備が行われました。

 それでは鋳物製造に欠かせないキューポラ(溶鉱炉)を見に行きましょう。
5分も歩けば、金屋本町の一角にキューポラで使われていた角形煙突を見つけることができます。
「旧南部鋳造所」のキューポラは1924年に建造され、金谷町に現存する唯一のものです。
煙突の変色したレンガが、歴史を物語っています。

 さてここからは「赤レンガの銀行」辺りまで戻り、「高岡大仏」を目指します。
途中、古い建物が並んでいるのがわかります。
「筏井家住宅」は、1903年の建物です。
綿糸などの卸商を営んでいた商家で、2階の窓は観音開きの土扉が備えられています。
この土扉は、開けば隣の扉どおしが一体化して納まるようにできているところが特徴です。

 通りの反対側にある「菅野家住宅」も、古い建物です。
北海道との廻船の商いで巨万の富を築いた商家で、土蔵造り2階建ての外観は黒漆喰で仕上げられています。
1889年には高岡銀行、1893年の高岡紡績、1903年の高岡電灯と次々に設立をし、政界にも進出した菅野家です。
高岡大火で痛い目を負った住民は、「菅野家住宅」に見られるような防火壁正面の石柱を建てて延焼を食い止める工夫が、建物からも読み取れます。

 その他に「高岡市土蔵造りのまち資料館」などもあり、それらの建物を眺めながらさらに歩いて行きます。
そして、右手に折れたところに「大佛寺」があります。
ここに安置する阿弥陀如来坐像が、一般に「高岡大仏」と呼ばれているのです。
高さ16m近くの大仏像は、奈良、鎌倉に次ぐ日本3大仏と呼ばれています(もっとも、日本3大仏は全国にいくつもあるのでしょうが)
木製の「高岡大仏」が最初に造られたのは13世紀のことで、1900年の高岡大火で焼失していまいます。
いま目にしている大仏は、1933年に青銅製で再建されたものです。
大仏の下は「大仏台座回廊」として、入ってお参りすることができます。

 ここまで来たのですから、この先の「高岡古城公園」にも寄って見ます。
加賀藩2代藩主 前田利長が、1609年の富山城下の大火で焼失した「富山城」に代わって越中の拠点とすべく1609年に築城したのが、この「高岡城」です。
しかしその僅か6年後に発令した一国一城令によって、「高岡城」は廃城となります。
堀や土塀は保存され、明治以降も城址はそのまま公園として今に残されています。

 「高岡古城公園」内には、「射水神社」もあります。
「射水神社」は奈良時代以前には創建されたと言われ、伊勢神宮に祀られる天照大神の孫神様である「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」を祭神としています。

 ここまでは駅の北側を巡ってきました。
最後は南側を訪れます。
JR高岡駅まで戻り、そこから歩いて10分のところに「瑞龍寺」があります。
加賀藩3代藩主の前田利常が、2代藩主前田利長の菩提を弔うために1663年に建立した寺です。
3600坪の敷地の周囲には壕をめぐらし、城郭の姿を思わせるような造りです。
総門の先の山門から、左右に伽藍が続きます。
その伽藍に囲まれた法堂までの石畳は、左右に緑のじゅうたんが広がります。
砂利が敷き詰められた寺とは違い、ここではその緑の先に仏殿そして法堂があったのでした。

 今日は高岡の町を隈なく回り、足は棒のようになってしまいました。
と言うことでガソリンを入れるために、高崎駅前に戻ることにします。
冷たいビールと口に入れると甘みが広がる白エビ、そしてサス(カジキマグロの富山での呼び名)の昆布〆は絶妙の組み合わせではないでしょうか。

   
旅の写真館(1) (2) (3)