にっぽんの旅 北陸 富山 城端

[旅の日記]

絹繊業盛んな城端 

 JR城端線の終着駅、城端(じょうはな)にやってきました。
「越中の小京都」と呼ばれるこの町を、本日は散策します。
駅の改札でコインロッカーの場所を尋ねると、こちらに回ってくれと観光案内所の鍵を開けてくれます。
どうやらこの駅にコインロッカーはなく、観光案内所で預かるとのことです。
ついでに城端の観光マップをもらい、町に繰り出していきます。

 城端駅から南砺市役所までは、バスで向かいます。
市役所庁舎と同じ敷地内に「じょうはな座」はあります。
400席の舞台や会議室をもつ多目的ホールです。
外から見ると、大型の芝居小屋のような町屋造りの建物です。
訪れた日には、民謡発表会が開催されていました。

 ここからは、「じょうはな座」から北に延びる道を歩いて行きます。
そこには、「桂湯」があります。
正面の壁には銅板が拭かれ、レトロな姿をしています。
大正時代に建てられた銭湯で、今では手作りクラフトの店として小物を販売しています。

 そしてこの先の「今町通り」は、明治時代の土蔵を利用した蔵回廊が並んでいます。
石畳が敷かれ、風情のある小路が続きます。
ここが城端で1〜2番に好きなところで、実に城端らしい風景です。

 その先には、「城端別院 善徳寺」があります。
蓮如上人の願いにより蓮真は石川県と富山県の県境にある砂子坂に一寺を建立します。
1470年ごろのことです。
その後に布教活動のために寺所を移転し、現在の城端町に移転してきました。
本願寺と織田信長との石山合戦では、本願寺に加勢します。
江戸時代には加賀藩前田家の庇護のもと、加賀藩主の子を住職として迎えることもあったほどです。

 そんな「城端別院 善徳寺」の境内に入ってみましょう。
山門を潜ると左手に鐘楼堂が、そして正面には本堂、本堂に続き正面右手に対面所が広がります。
奥には大納言の間があり、主前田利長公が鷹狩の時の宿泊したところです。
御殿は、加賀藩主の御子息である亮麿が住職として「善徳寺」に入寺した時に、日常使用する部屋として造られたものです。

 ここから城端のメインストリートである「西町通り」を歩きます。
「曳山会館」では、曳山祭の際に巡行する曳山が展示されています。
そしてその向かいには、この辺りでは珍しい洋館の「じょうはな織館」があります。
中では手織りの体験ができますが、それは似合わず素質もないので、パスします。
その代わりに織機を見て、江戸時代に加賀絹の産地として栄えた城端の歴史を感じることにします。

 「曳山会館」の裏手に回ってみましょう。
ここには「坡場の坂」と名付けられた通りがあります。
風情のある建物に醤油屋を示す木の看板が掛かっています。
他の建物は「東新田町公民館」であったり、どれも趣のある日本家屋ばかりです。

 その先には「松井機業」があります。
1877年創業の絹繊業で、「しけ絹」を扱うショールームになっています。
通常は1匹の蚕が1つの繭玉を作るのですが、ごくまれに2匹の蚕が1つの繭玉を作り上げることがあります。
これを「しけ絹」と呼び、太さが不均一な玉糸で織り上げられた絓絹は独特の模様を作り出します。
絹産業で栄えた城端だからこその、珍しい絹です。

 その途中には、川島甚兵衛の墓があります。
川島甚兵衛といえば、京都西陣の老舗「旧川島織物」の創業者で、西陣織を世に広めた人物です。
彼が城端の出身だとは、ここに来るまで知りもしなかったことです。
それでは、城端での織物工場を見に行きましょう。

 その名の通り「川島通り」が、「坡場の坂」から北に進んだところにあります。
川島甚兵衛の碑があり、その先が織物工場になっています。
木の板を打ち付けた工場の外壁の間に挟まれた通りを、進んでいきます。
道の左右の建物を結ぶ渡り廊下が通りを跨いでおり、これがなんとも言えない絵になる風景です。
「今町通り」とともに城端の好きなところのもうひとつが、ここ「川島通り」なのです。
せちがない現在社会と違って、なぜか風情がありませんか。

 こうしてブラブラしながら城端の町を回り、最後には城端駅に戻ってきたのです。
実は街歩きに没頭し、昼を食べるのを忘れてしまいました。
駅前には、これといった食堂はありません。
そこで気づいたのですが、駅で富山が誇る黒とろろ昆布の餅が土産物の販売に混ざって売られています。
とろろ昆布を巻いたおにぎりはよく目にしますが、餅に巻くのは初めて知りました。
この昆布餅を買って、帰りの城端線の中でかじりながら帰ったのでした。

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