にっぽんの旅 北陸 富山 岩瀬

[旅の日記]

岩瀬の廻船問屋 

 富山県の岩瀬、富山湾を訪れてみます。

 富山駅からは、「富山ライトレール」で30分の岩瀬です。
前身は富岩鉄道で、富山電気鉄道(現富山地方鉄道)、国鉄(現JR西日本)を経て、2006年には富山ライトレールの路面電車として生まれ変わりました。
路面電車といってもあなどることなかれ、ポートラムと呼ばれる曲線美のモダンなLRT車両です。
全部で7編成ある車両は、同じデザインでありながら、それぞれが個別の色合いで区別されています。
超近代的な2両編成の車両に乗り込みます。
富山駅近辺の路面を走行している間は車と同時に走り、交差点では直角に曲がります。
そして途中からは、専用軌道に入ります。

 東岩瀬駅で降り、そこから先は歩いて岩瀬の街を巡ります。
ここでは、旧東岩瀬駅が保存されています。
新駅の富山駅井側に、今まで使っていた駅がそのまま残されています。
保存されているのは、1908年に造られた初代越中岩瀬駅(現東岩瀬駅)に続く、1950年建設の2代目の駅です。

 といっても、駅の近辺に大きな建物があるでもなく、普通の田舎の駅です。
海側に抜けて、「森家」を目指します。
この辺りは、北前船で栄えたところです。
倍々に儲けることができることから、地元では北前船のことをバイ船と呼んでいました。
幕末から明治にかけて、この地方を大いに栄え、多くの商人が集まってきました。
しかし北陸本線の開業に伴って、船の往来も次第になくなっていったのでした。
通りには、昔の町屋がそのまま残されています。
商店、医院、銀行までもが昔の造りのままで、街の景観を損なわないようにしています。

 廻船問屋「森家」も、そのうちのひとつです。
森家は、代代四十物屋仙右衛門と称し、明治以降に苗字を森としました。
北前船で財をなし、1878年に建てられた現存の森家は、80坪の母屋に裏庭が続きます。
囲炉裏のある部屋を通り、奥座敷の床間は2間3尺のものです。
座敷は襖を外すと、6部屋通しの52畳もの大きな広間として使うことができます。
扉を開くと現れる巨大な金庫もあり、案内のなかで紹介されます。
当時の華やかだったころの様子が見て取れます。

 「森家」から北に歩いて行くと、「岩瀬諏訪神社」があります。
古くから町の鎮守として敬われ、かつては北前船の航海安全や商売繁盛の祈願所として栄えてきました。
毎年5月に岩瀬曳山車祭が開催されるのも、この神社です。

 さらに北方向に進むと、岩瀬運河に架かる岩瀬橋にぶつかります。
橋を越えたところには「岩瀬カナル会館」があり、運河に向かって人魚の像が腰をかがめています。
そして人魚の視線の先には、パナマ運河のように水面の高低差を利用して船を通す「中島閘門」があります。

 このすぐ隣が、本日の最終地点の「富山ライトレール」岩瀬港駅なのですが、少し運河を下って行きます。
道路から側道への車止めには、魚の形をした車止めが使われています。
そして500mほど運河を下れば、そこは富山港です。
漁船が行き交う港を想像していたのですが、海産物豊かな富山のイメージとは違い、港はひっそりとしています。
訪れた時間が悪かったのかもしれません。

 岩瀬港駅からは再び「富山ライトレール」に乗り、富山駅まで戻ります。
富山へは1駅前の電停で降りて、「富岩運河環水公園」に寄っていきます。
ここには、富山市街地と東岩瀬港とを結ぶ長さ5.1kmの運河があります。
かつの富山は、大きく蛇行した神通川が度々引き起こす洪水に悩まされていました。
「富岩運河」はこの場所に工業地帯を誘致するための計画であったとともに、運河建設のために掘削された土砂を神通川を整備する際の廃川敷を埋め立てるためのものだったのです。
こうした昭和の大事業の末に造られたのが旧舟だまりを利用した港と運河で、舟だまりを取り巻くように芝の公園とホテル、レストラン、体育館などが集まっています。
そしてここのシンボルは何といっても「天門橋」で、橋の両岸には展望塔が備わっています。
ここからは観光船も出ており、運河を巡ることができるのです。

 富山駅に帰ってきたからには、富山の美味しいものを食べずには帰れません。
富山湾で採れた魚を使った寿司を「富山湾鮨」と言います。
旬の地魚を、新鮮なまま堪能できるのです。
白えび、ホタルイカはもとより、ノドグロやムロアジ、トビウオなどどれを食べても美味しいものばかりです。
酒も進み、満足のいく富山の夜を過ごしたのです。

 帰りには白えび煎餅を買い、漁港の雰囲気を味わいます。
北前船で栄えた岩瀬を巡った1日でした。

   
   
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