にっぽんの旅 北陸 富山 井波

[旅の日記]

彫刻の里 井波 

 本日の旅のスタートは、あいの風とやま鉄道とJRが乗り入れる「高岡駅」です。
駅前には安土桃山から江戸時代にかけてこの地を治めた「前田利長」の像があります。
以前に訪れた「高岡古城公園」にも利長の銅像があったように、今でも高岡では人々から慕われています。

 そして「高岡駅」から本日の目的地は、井波です。
JR城端線で近くまで行くことはできますが、そこからバスに乗り換える必要があります。
そのバスの便数が少なく時間も合わなかったため、レンタカーを借りることにします。
ところがレンタカーの販売店はここになく、まずは新高岡駅に向かって車を借ります。

 新高岡から井波までは20km以上あります。
カーナビの案内に従って、のんびりと車を進めます。
目的地までもう少しのところまで行ったところで、井波への分かれ道があります。
そこにあったのが「獅子の子落とし」の大彫刻です。
親獅子が谷に落とし這い上がってくる子獅子の姿を彫ったもので、強くたくましい子供を育てる様子を表現してます。
高さが8mもあるこの木彫は、瑞泉寺勅使門の彫刻である「獅子の子落とし」を表しています。

 そうしている間に、井波の街中の駐車場に着きました。
「井波交通広場駐車場」です。
駐車場にも巨大な彫刻が建っています。
そうです、ここ井波は手掘りの彫刻で有名な所なのです。
今日はその井波彫刻を見て歩くことにします。

 駐車場の通りを挟んだところにも、木彫りの欄間が掲げられています。
そしてその前には屋根に囲まれた水の注いでいるものがあります。
ここから「瑞泉寺」に続く参道が始まるのですが、ひょっとしてその「瑞泉寺」の手水舎でしょうか。

 「八日町通り」は石畳が続く、「瑞泉寺」に向かう参道です。
通りの両側には、門前町に似合う木造の瓦葺の建物が並びます。
飲食店、工芸品、新聞屋など、観光客相手だけでなく生活に密着した店舗もあります。
来週と再来週に3連休が控えているせいなのか、日曜日というのに人の姿はまばらです。
交通の便が悪いとはいえ、観光地なのにあまりにもガランとした様子に、肩透かしをを食わされたようです。

 そんな中に、「若駒酒造場」があります。
店の入り口の上に掲げられた酒樽が描かれた木の看板、そして杉玉が酒屋であることを教えてくれます。
1889年から続く造り酒屋で、庄川上流の伏流水を使用した手作りの酒が並んでいます。
水の清いところの酒は旨いのことから、帰りにはここに寄って自分のご褒美として酒を買うことにします。

 その先には「よいとこ井波」という飲食店や工芸展が集まった場所があります。
そのひとつの井波彫刻の工房に寄ってみます。
ここでは井波彫刻を実際に作っているところを見ることができます。
彫刻で使う道具ですが、100種類を超える彫刻刀やノミを使い分けています。
道具を見るだけでも飽きません。

 「よいとこ井波」の中には、「池波正太郎ふれあい館」も入っています。
「鬼平犯科帳」などで有名な小説家です。
1923年に浅草で生まれた正太郎は、関東大震災で埼玉県浦和に一時移り住んだ時を除いて幼少期は東京で過ごしました。
その後は株式現物取引店や株式仲買店に方向に出ます。
太平洋戦争が始まってからは旋盤機械工として岐阜に住むことになります。
ついには正太郎にも召集令状が届き、横須賀海兵団に入団すまう。
そのころから、俳句や短歌に興味を持つようになります
戦後は東京に戻り東京都職員になった傍ら、劇作家としての偉才を発揮することになります。
劇作家として自信をつけた正太郎は、改めて小説家としての人生を歩み始めます。
小説としての処女作は、1959年に発刊した「信濃大名記」です。
その後は「錯乱」によって直木賞を受賞します。
連載ものの「鬼平」は、テレビに取り上げられ「鬼平犯科帳」が連続ドラマ化され、正太郎の人気を不動のものとしました。
1972年に発表した「剣客商売」は「仕掛人シリーズ」としても有名です。
「雲霧仁左衛門」や「真田太平記」など、誰もが知る多くの作品を世に出しました。
「池波正太郎ふれあい館」には正太が執筆した原稿も残されています。

 その正太郎と井波との関係が気になります。
実は正太郎の先祖は越中井波の出身で、ここから江戸へ出た宮大工でした。
そのこともあって正太郎は58歳の時に、て初めて井波を訪れました。
しかし井波の魅力に取りつかれてそれ以降何度も訪れ人々に接していたことから、井波に「池波正太郎ふれあい館」を設ける運びになったのです。

 「八日町通り」の「よいとこ井波」の場所に、右に入る筋があります。
この先に「黒髪庵」があるので、寄ることにします。
「黒髪庵」は、芭蕉の門弟だった「瑞泉寺」の11代浪化上人が、芭蕉の墓から持ち帰った3個ので「浄蓮寺」の境内に塚を建てます。
そして後には、芭蕉の遺髪も納められました。
加賀、越中、能登の三国の俳人数百名が寄進を行い、建てられた庵を「黒髪庵」はと呼ばれています。
そばには茅葺きの「芭蕉堂」もあります。

 再び「八日町通り」に戻ります。
鉄筋コンクリート2階建ての建物は、「井波美術館」です。
「北陸銀行」の前身である「中越銀行」として1924年に建てられたものです。
鉄筋コンクリートの建物は当時としては先駆けだった
旧井波町が譲り受け、1987年に「井波美術館」として開館しました。
ところが残念なことに2019年に閉館しており、今は外観を眺めることしかできません。

 さていよいよ、目の前に迫った「瑞泉寺」を訪れます。
「瑞泉寺」は1390年に本願寺5代綽如(しゃくにょ)上人によって開かれました。
そのころ中国より国書が朝廷に送られてきました。
ところが内容が難解で、朝廷では読むことができませんでした。
それを知った綽如上人が上洛し国書を読み返書まで差し上げたところ、天皇は大いに喜ばれ綽如上人に「周圓」の号を授けます。
そして綽如上人が寺院建立の願いがあることを知り勅願所として寺院を建立することを勅許しました。
それが、この「瑞泉寺」のことです。

 現在の本堂は1885年に再建されたもので、井波大工の棟梁松井角平恒広を中心に多くの大工と彫刻師によって完成しました。
本堂からは渡り廊下でつながる太子堂は、1918年再建されています。
棟梁松井角平恒信が大工34人を従えて造ったもので、7年にも及ぶ大工事でした。
また山門に至っては、1785年の作です。
最初は京都東本願寺の大工柴田新八郎貞英が棟梁として建て始めましたが、同じ時に京都本願寺火災に対する復興工事が始まったため、その後の完成までを井波大工で副棟梁であった松井角平恒徳が引き継いいだのでした。
いずれの建物にも大規模ながら細かい丁寧な彫刻が施されており、目を見張るものがあります。
しばらくはその彫刻の数々を眺めることにします。

 それでは「瑞泉寺」を出て、近くにある「井波八幡宮」に向かいます。
井波城本丸跡に建てられた「井波八幡宮」には、井波城の石垣など多くが残っています。
本殿西側には1861年に地元の蚕業者達が蚕の霊をともらうために建立した総ケヤキ造りの蚕堂もあります。

 さらにその先を進みます。
「金城寺」は、別名を「なでぼとけ寺」と呼ばれている寺です。
弘法大師空海を宗祖とし、高野山金剛峯寺を総本山とする高野山真言宗の寺です。
一向一揆の百姓たちが造ったされる井波城内堀の跡に建立されました。
気になる「なでぼとけさま」は、お釈迦さまの弟子のひとりで非常に強い神通力を持っていました。
通りすがりに自身の脚や腰をなでて痛みを和らげていたので、いつしか「なでぼとけ」と呼ばれるようになっていました。
病気平癒、無病息災の御利益があるとされています。

 「なでぼとけ寺」の横道を入ったところに「臼浪水」があります。
1390年のことです。
杉谷の山里に住んでいた綽如上人が天皇のお召しにより上洛する途中に、乗っていた馬が大地を蹴っていななき進まなくなります。
不思議に思った綽如上人が従者にその地を掘らせると、地下から泉が湧き出したのです。
そのことからこの土地を「井波」、そして寺を「瑞泉寺」と呼ぶようになったと言われています。

 その近くで草が生い茂る細い道を入ったところに、「松島大杉」があります。
推定寿命600年の杉の木で、36mもの高さがあります。
雑草の中の判りにくいところにありますので、見逃すところでした。

 これからは「井波彫刻総合会館」に井波の彫刻を見に行くことにします。
遊歩道が整備されており、真っ黒の姿をしたハグロトンボが飛び回っています。
カメラを向けると逃げてしまうので、写真に収めることはできませんでした。
途中に広がる「大門川河川公園」にも、彫刻が飾られています。

 そして着いたのが、「井波木彫刻の里」です。
広大な駐車場の脇には、木彫りの像が並んでいます。
ここにある食堂で、巨大なソフトクリームが売られています。
普通の3倍はあるのですが、値段は2分の1といったお得なものです。
そうとなれば頼むしかありません。
最初は店内で食べていたのですが、次第にクリームが溶けだしました。
床を汚してはいけないので外に出たのですが、それが逆効果だったのかもしれません。
外の暑さでクリームがさらに溶けだし、足元にはたくさんの白い斑点がついています。
人目を気にしながら、何とか食べ終えたのでした。

 さて、いよいよ「井波木彫刻の里」の奥にある「井波彫刻総合会館」に入ることにします。
まずは会館の入口に並ぶ巨大な「井波彫刻欄間」に目が引きます。
一方館内に入ると木彫りの獅子舞の頭、木彫りの雛人形、そして欄間の数々が展示されています。
多くの木工職人をもつ井波が成せる業です。
しばらくは巧妙に彫られた芸術の数々に見入ったのでした。

 これで井波の彫刻を一通り回り終えました。
駐車場で車に乗り、最後に向かったのが「井波物産展示館」です。
実はここ展示館は「旧井波駅」だったところです。
かつては井波にあった「加越能鉄道加越線」の駅です。
「加越能鉄道」の全身の「砺波鉄道」が開業したのは、1915年のことです。
最初は福野駅と青島町駅(後の庄川町駅でいまは廃駅)が開通しました。
その後の1932年に、井波駅から富山紡績井波工場への専用線が完成します。
1943年に設立した富山地方鉄道の駅になります。
その後井波駅から福光駅へ国鉄自動車金福線が開業し、そのころの井波駅は賑やかな駅となっていました。
そして金福線は井波線と名前を変え駅も増えますが、その時がピークで次第に衰退を始め1972年にはついに廃駅となったのでした。

 今見の鉄道の歴史も知り、これで本当に井波の町ともお別れです。
車は朝来た新高岡まで帰っていくのでした。

旅の写真館(1)