にっぽんの旅 北陸 富山 五箇山

[旅の日記]

五箇山の合掌集落 

 本日は、富山県の南西端の庄川沿いに位置する山間の村 五箇山を訪れます。
赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の5つの谷からなる五箇谷間が転じて「五箇山」になったと言われています。

 城端駅から、世界遺産バスと称する五箇山から白川郷に抜けるバスに乗り込みます。
バスはやがて山道に差し掛かり、見どころに合わせた解説が社内放送で流れます。
そしてこの地方の民謡「こきりこ節」も社内に響きます。
もう、旅の気分満載です。

 谷深いこの地は外部からの行き来も阻まれ、冬ともなれば雪深い辺境の地と化するのです。
五箇山は源義仲と平維盛が戦い、平家の落人が住み着いたことでも有名なところです。
今でこそ道路が整備されていますが、それでもおいそれと行くことができないのが、この地方の独特の文化と風習が今も残る所以です。
バスは谷底を眺める陸橋を渡って、山の奥へ奥へと進みます。

 やがて相倉口のバス停に着きます。
バス停から集落まで10分ほど歩いて行くと、24棟の合掌造りの建物が今も残っている「相倉(あいのくら)合掌集落」があります。
しかもその半数は、今でも人が住んでいる現役の建物なのです。
茅葺の屋根を持つ建物は、民家だけでなく民宿として営業しているところもあります。
実は今回もそんな民宿に泊まろうとしたのですが、人気のためか満員で予約ができなかったのです。
そんなん人にためか集落の入り口近くに2階を見学できる民宿があり、合掌造りの中を見ることができます。

 まずは駐車場の奥から延びる坂を登り、「相倉展望台」に向かいます。
周りを飛び交うアブの羽音に恐れながら、坂にへばりつくように作られた畑の間を進みます。
坂を登りつめると水平な道となり、木々は途切れて集落を見渡せる場所が「相倉展望台」です。
ここからは、家々の茅葺屋根を臨むことができます。

 それでは集落の中心地に入っていきましょう。
「地主神社」には「廿日石」があります。
豪雪地域のこの地で4月3日の旧節句にこの石が雪面から顔を出せば、どんな大雪の年でも20日ですべての雪が消えると言われています。
「相念寺」は、1859年に建てられた本堂をもつ寺院です。
1552年に浄土真宗の念仏道場を構えたのが始まりだと言われています。
相倉らしく、珍しい茅葺屋根をもつ寺院です。

 されではここで、「相倉民俗館」に入ってみましょう。
中に入ると囲炉裏が出迎えてくれます。
ここで家族みんなが暖を取り、川魚や鍋を火にかけたことでしょう。
合掌造りの家は、60度の急な傾斜の屋根をもちます。
これは降った雪が屋根に溜まることなく滑り落ちるようにしたもので、正三角形構造で丈夫でもあるのです。
背の高い合掌造りの建物ですが、人の居住空間は1階だけで、2階以上は養蚕用の蚕小屋となっていました。
それでは足を踏み外せば転げ落ちそうな梯子のような急な階段を登って、2階に行ってみます。
暗い屋根裏ですが、窓があるので外からの陽が差してきます。
2階の床には隙間があり、1階の囲炉裏の煙が循環されて外に出るようになっているのです。

 その後は「相倉伝統産業館」に向かいます。
ここでは、当時使われていた着物や民具が飾られています。
もちろんこちらでも、2階の屋根裏部屋を見て回ることができます。

 ここで食事を取ることにします。
「相倉合掌集落」には、民宿を除けば2軒の食堂があります。
そのうちの1軒に、入ってみることにします。
注文した山菜そばは、シイタケ、ワラビ、ゼンマイ、シメジ、ウド、タケノコなどの自然の山菜がいっぱいで、麺が見えないくらいの量です。
これが見たくて、夏場なのにあえて熱いそばを頼んだのでした。
山菜の出汁が良く出て、美味しい1品です。

 ここからは再びバスに乗って、上梨谷に向かいます。
ここは合掌造りの「村上家」が残る集落です。
バス停の正面には、大きな合掌造りの建物があります。
この「村上家」は、天平時代に建てられた400年を超す住宅なのです。
切妻造り茅葺で、外からは4階建ての家屋に見えます。
中に入ると、ここにも家族団欒の囲炉裏が正面にあります。
大きな「村上家」は2階も広く、多くの蚕を飼っていたことでしょう。

 その隣の駐車場を挟んだ先には、「白山宮」の鳥居があります。
「白山宮」は、700年代初期に泰澄大師により人形山山頂に勧請されました。
そして1125年に村の市郎右エ門によって、この地に移ってきました。
白山菊理媛命を主神とし、諏訪大明神、宇佐八幡宮も祀られているこの地方の守り神なのです。
「白山宮」の隣には、こきりこ節の舞台もあります。

 それでは、庄川の橋を渡って川の対岸を歩いてみます。
川を渡るとすぐに山が迫り、上り坂が待っています。
その途中に「流刑小屋」もああります。
五箇山地方は庄川東岸が断崖絶壁で隔離されており、流刑の好適地になっていました。
江戸時代に加賀藩は、政治犯などの罪人をこの地に送り込み、 この「流刑小屋」に閉じ込めました。
多くの流刑人はこの狭い小屋の中で過ごし、一生を終えたと言われています。

 「流刑小屋」の先には、合掌造りの「羽馬家」があります。
小柄な家ですが、バス通りからは奥まった静かなところです。
扉も窓も開かれたままで、家の中まで入ることができます。
つい先ほどまで住んでいたかのような生活臭あふれた様子が、親しみを感じます。

 さらにバスに揺られて、この先の菅沼地区に向かいます。
庄川がU字型に曲がる内側に「菅沼合掌集落」はあります。
管沼にある12棟の家屋のうち、9棟が合掌造りの家屋です。
まずは1段高いところにある駐車場から、菅沼地区の全景を見渡します。
所々で屋根の葺き替えを行っている様子を見ることができます。

 それでは合掌造りのひとつである「五箇山民俗館」に寄ってみます。
館内にはこの集落で使われていた衣類や農機具、養蚕の道具が展示されています。

 一方「塩硝の館」では、五箇山の産業であった黒色火薬の原料となる塩硝の製造工程が紹介されています。
加賀藩は山深く情報の漏れない五箇山を、塩硝の一大生産拠点として秘密裏に産業を育成してきました。
ヨモギやウドなどの野草に蚕の糞を混ぜ、これらを囲炉裏のそばに掘った穴に何層も重ねて埋めて、4〜5年の歳月をかけて囲炉裏の熱で発酵させます。
できあがった塩硝土は桶に入れて水をかけ、出てきた水分を鍋に入れて煮詰めます。
そうして最後に残った固形物が塩硝で、加賀藩の金沢まで馬に乗せて運び納めていたのです。
そんな先人達の暮「塩硝の館」で見ることができます。

 また「菅沼合掌集落」からトンネルを抜けた先には「五箇山合掌の里」もあります。
13棟の合掌造り家屋で、宿泊することができます。

 雪深い五箇山を避けて、今回は夏の訪問となりましたが、雪化粧した五箇山の景色も魅力的です。
寒さにはめっきり弱いのですが、いつかは冬の五箇山も訪れてみたく思います。

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