[旅の日記]
九谷焼の山代温泉 
JR北陸本線で、特急サンダーバードが到着したのは「加賀温泉駅」です。
ゆっくりと温泉に入りたく思い、今日は山代温泉に泊まります。
「加賀温泉駅」は駅舎と駅前ロータリー、それに周囲の店舗が大改装中です。
来年2023年の北陸新幹線が金沢〜敦賀の延長開業に備えて、急ピッチで工事が進んでいます。
新幹線ホームの駅舎の外壁だけは、ほぼ出来上がったようです。
駅には旅館からの送迎が来るはずですが、まだ時間が早いのかバスは来ていません。
しばらく待つとマイクロバスがやって来て、これに乗って宿まで進みます。
ひとまず宿に荷物を置いて、出掛けたのは山代温泉の町巡りです。
小さな町なのであっという間に回ることができますが、それは明日もあること。
せっかく心を安らげるために来た温泉ですから、ゆっくりと町を回ることにします。
最初にあったのは「いろは草庵」です。
北大路魯山人が1915年の秋から、刻字看板を彫るために半年間宿した場所です。
魯山人は1883年に京都の上賀茂神社社家の次男として生まれますが、すぐに里子に出されその後も転々と養家が変わります。
不遇の幼少時代を過ごしますが、6歳の時に木版業を営む福田家の養子に入り養父福田武造の木版の仕事を手伝いをしたことが、その後の芸術家そして書道家への道を開くことになります。
山代温泉へは細野燕台に伴われてやってきますが、ここで須田菁華より陶芸の手ほどきを受けることになり、さらに芸術への感性を研ぎ澄ますことになります。
「いろは草庵」は明治初期の建設で、路魯山人が使った仕事部屋や書斎そして囲炉裏間を見学することができます。

その横には鳥居の先に石の階段が続きます。
「服部神社」で、機織の神である天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)が祀られています。
1552年には越前の朝倉義景の戦火にあって、社殿が消失します。
1875年になってやっと再興され、白山神社と合社していまの姿になりました。
ここで面白いものを見つけました。
境内の一角に、儀式をしたような跡があります。
束ねられた稲の穂が立っています。
早い田では稲刈りが始まっている時期なので、豊作を祈った神事だったのかもしれません。

登ってきた石段を降り、その横にあるのは「薬王院温泉寺」です。
725年のことです。白山登錫にやってきた行基菩薩が、霊鳥の教えで温泉が湧いているのを見つけました。
これが山代温泉の起源です。
その後行基が白山大権現を勧請したことが、この寺院の興りです。
ここも朝倉義景の兵火によりにより焼失しますが、江戸時代に入って初代大聖寺藩藩主の前田利治によって再興されました。
山門や本堂は朱色で飾られ、こちらの方が神社かと見間違える程です。
平安時代の十一面観世音菩薩像や鎌倉時代の不動明王像などが安置されています。
山門の外には、本を開いたような変わった形の石碑があります。
実は「あいうえお」の50音はここ山代温泉が発祥だという説があります。
1056年に生まれた明覚上人は、比叡山で修業をした坊主です。
インドのサンスクリット語を学び、日本語の漢字音もいかに正確に表現できないかと、仮名の50音図を作り出したと言われています。
真偽のほどは確かではありませんが、ひょうとすると日本の仮名の誕生にも関係していたかもしれません。

山代温泉には共同浴場が2つあります。
そのひとつが「総湯」です。
老舗旅館であった「旧吉野屋旅館」の門を活かし、新たに整備された温泉です。
もうひとつの「古総湯」も「総湯」の隣にあります。
山代温泉の中心にあり、曲線を持たせた道路の真ん中に位置します。
明治時代にあった総湯を復元したもので、シンボル的な存在です。
実は。夕刻の灯りが灯るこの時を待っていました。
「古総湯」窓から漏れる灯りが、眩しくもあり美しくもあります。
そしてその横には、足湯もあります。
足湯であり山代温泉の源泉でもあるここでは、湯が湧きだして垂れています。
温泉を飲むこともでき、柄杓が置かれています。
ここでゆっくりと足湯に浸かってもよいのですが、いよいよ日が暮れてきました。
今日のところは、宿に帰ることにします。

さて今回の宿は、時間帯を区切ってのことですが部屋ごとに占有の風呂があります。
大浴場も行ったのですが、嬉しい配慮です。
壁はヒノキの木が張られており、妙に落ち着きます。
いつもは烏の行水で15分も入らない風呂ですが、今日ばかりはゆっくりと湯に浸かったのでした。

待望の夕食は海の幸を堪能できるものです。
部屋ごとに食事の間も仕切られており、まるで個室のようなところです。
刺身や鍋になったホタテ、それに牛の陶板焼きがまず用意されています。
その後も煮物や焼き魚、アワビなど、次々と出てきます。
最後のご飯は、これでもかと言わんばかりの海鮮丼が出てきます。
最近は健康のためにご飯の量を抑えていたですが、ここにきてリバウンドが起きてしまったかのように腹いっぱい食べてしまいました。
もちろんその後のフルーツも、残さず腹に入ったのでした。
翌朝は、前の日に巡った「古総湯」「足湯」からの散策開始です。
ここから先を歩いていきます。
通りには子供や地蔵さんを模ったかわいらしい石像が並びます。
その先にあるのが「女生水(おんなしょうず)」です。
温泉開設当初から枯れることなく湧き続けtきた水です。
地面を掘れば温泉は出てくるけれど、飲める水はなかなかなかったそうです。
温泉が出ると宿には多くの客が押し寄せる。そうすると多くの水が必要になる。
飲料用の水源であったここに多くの女中が並んだことから、「女生水」と呼ばれるようになったということです。
「女生水」があるのなら「男生水(おとこしょうず)」もあるのではないか。
その通りです、少し歩くとそこに「男生水」がありました。
上水道がなく飲料水が貴重だった当時は、朝夕だけが水を汲むのを許されていました。
2つの桶に汲まれた水は、天秤棒の上下に吊るされ男の手で運ばれたということです。
こちらの水汲み場に安置されている水掛地蔵尊には、お参りすると子宝に恵まれるとの言い伝えもあるそうです。
ここから少し歩いていきます。
山代温泉で最後に訪れたのは、「九谷焼窯跡展示館」です。
江戸時代に加賀藩領の九谷村(現在の加賀市)で良質の陶石が発見されました。
これに対して藩士の後藤才次郎が、焼き物の技能の習得のために有田へ行きます。
帰藩後の1655年には、九谷焼の生産が藩の政策として始められたとされています。
いわゆる古九谷と呼ばれるものです。
いったんは途絶えた古九谷ですが、大聖寺の豪商豊田伝右衛門が古九谷のもつ色絵磁器をここ山代温泉で復活させようとします。
ここにあるのは、その時に造った「吉田屋窯」の跡です。
九谷焼としては現存する最古の登り窯が残されています。
これで山代温泉の街中散策も、一通り終えました。
名残惜しいさはありますが、これで山代温泉を後にしたのでした。
旅の写真館(1)