にっぽんの旅 北陸 石川 金沢

[旅の日記]

金沢・兼六園 

 今回の旅行は北陸の小京都、金沢での散策です。
2度目のこの地を旅します。

 金沢市を流れる犀川の畔の宿で目をさまし、川に降りてみます。
上菊橋と下菊橋の間は、河原も緑地帯に整備されていて、寝転ぶこともできます。
鴨が河原を歩いており、そのヨチヨチ歩く様が滑稽で、しばらく見とれてしまいます。

 さてこれからは、最初に「兼六園」に向かいます。
「兼六園」は、岡山の後楽園、水戸の偕楽園と並んで、日本三名園のひとつに数えられます。
17世紀中期、加賀藩により金沢城の外郭に造営された藩庭を起源とする庭園で、広さ約3万坪の広大な池泉回遊式庭園です。
1676年に5代藩主前田綱紀が「蓮池亭」を造り、その庭を「蓮池庭」と呼んだのが始まりとされています。
13代藩主前田斉泰の時代には、現在とほぼ近い形になったと言われており、「兼六園」の名もこの頃に定められたとされています。
春夏秋冬それぞれに趣が深く、今回は春の薄い緑に色付きだした兼六園を見て回ります。
園内には日本最古の噴水もあります。

 それでは、「金沢城」に向かいましょう。
1546年に城造りの寺院のである尾山御坊が建立され、加賀一向一揆で加賀の支配権を得た本願寺の拠点が、金沢城のはじまりです。
1580年には、佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、金沢城と改称します。
賤ヶ岳の戦いの後は、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)から加増を受けた前田利家が入城し、尾山城と名を替えます。
ところが、バテレン追放令により除封されたキリシタン大名高山右近が利家に呼ばれ城の大改造を行った際に、再び金沢城と呼ばれるようになります。
その後、前田利長による改造や、1602年の落雷による天守焼失と三階櫓が建造と続いて行きます。
しかし、1759年には宝暦の大火に見舞われることになります。
城内には金沢大学もあります(そういえば金沢大学には合格したものの、雪の深さに驚いて別の大学に入ったことの思い出が湧いてきました)
「石川門」が今でも残っています。

 再び「兼六園」の方向に進み、「石川県立歴史博物館」に行きます。
赤レンガの建物で、窓には鉄の扉が付いてます。
それもそのはず、ここは旧金沢陸軍兵器支廠だったところなのです。
終戦後は金沢美術専門学校(現金沢美術工芸大学)の校舎として使用されていましたが、今は博物館として保存されています。

 歴史博物館そして県立美術館を巡り、次は金沢の繁華街である「香林坊」方向に歩いて行きます。
「中央公園」の中には、「石川近代文学館」があります。
こちらもレンガ造りの建物で、旧第四高等中学校の校舎だったところです。

 一気に「武家屋敷跡」まで進みましょう。
「香林坊」から1筋奥に入ったところにあるこの町並みは、タイムトリップしたような風情のある作りになっています。
京都あるいは津和野や高山に比べるとほんの小さな一角ですが、繁華街「香林坊」から見ると土色の壁と石畳の道は実に情緒あるものです。
これが北陸の京都と言われる所以なのでしょう。
心優しい金沢に触れることのできた1日でした。

   
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