にっぽんの旅 北陸 福井 敦賀

[旅の日記]

敦賀 

 福井県の敦賀、アジアへの玄関口として栄えた町を巡ります。
JR敦賀駅を降りると、通りに宇宙戦艦ヤマトのモニュメントが並びます。
ここ敦賀は、北陸屈指の港町、そしてアジアへ走る国際列車の駅でもあったのです。
これらに謎って、敦賀が宇宙戦艦ヤマトの町と称されるようになったのです。

 それでは、敦賀港目指して歩きましょう。
古代進、沖田十三、佐渡酒造、メーテルなどの像を眺めながら進んでいくと、石灯篭と真っ赤な鳥居が見えてきます。
702年に建立された「氣比神社」です。
日本書紀にも登場するぐらいですから、かなり古くから鎮座していた神社であることは確かです。
特に高さ11mの大鳥居は、春日神社、厳島神社と並ぶ見本の三大木造大鳥居のひとつに数えられています。
本殿は、主祭神に仲哀天皇・神功皇后を合祀する本宮と、周囲には東殿宮(日本武尊)、総社宮(応神天皇)、平殿宮(玉妃命)、西殿宮(武内宿禰命)の四社之宮から成っています。
本宮の四隅に四社之宮を配置する独特な様式から、「気比造」と呼ばれています。

 さらに北へ歩くと、海が見えてきます。
日本海です。
イベントホールをもつ「きらめきみなと館」は、この日は催しがないようでひっそりとしています。
「きらめきみなと館」の玄関わきには、港開港100周年の鐘のモニュメント、そしてその横には3枚の帆を模ったモニュメントがあります。
その先の敦賀港には、海上保安本部の2隻の船が停泊しています。
中国・韓国・北朝鮮に面する日本海警備の厳しさを、感じずにはいられません。

 「旧敦賀港駅舎」では、かつての敦賀が国際都市であったことを知らされます。
新橋を出発した列車はここ敦賀で船に乗り込み、ウラジオストックを経由してシベリア鉄道でヨーロッパの都市まで1本の線路で通じていたのです。
今からすれば信じられないことですが、当時の新橋発パリ行の時刻表を見てうなずいてしまいました。
そして北陸線は、日本初の電化が行われた路線でもあるのです。
交流電化がなぜこの地で行われたかというと、東海道新幹線の着工を目前に控えて、電化の実験を行ったのがこの地だったのです。
北陸トンネルの開通という、前代未聞の大工事もこの地です。
つまり日本の鉄道の草分け的存在であったことには、間違いありません。
「旧敦賀港駅舎」では、展示資料とビデオで敦賀の鉄道にまつわる歴史を紹介しています。

 「旧敦賀港駅舎」のある「金ヶ崎緑地」には、もうひとつ訪れたいことろがあります。
人道の港「敦賀ムゼウム」という、洋風の建物です。
カウナスの日本大使館に勤務していた杉原千畝は、ナチスの魔手から逃れるため放浪していたユダヤ人達に、日本への渡航許可を許し多くのユダヤ人の命を救った人物です。
杉原領事代理は度重なる外務省への依頼にも許可が下りず、ついてには外務省の反対に背いてまでも、人道的立場から渡航証明書を発給してしまいます。
その結果、6000人近いユダヤ人が敦賀に上陸したと言われています。
どの国もユダヤ人の受け入れに消極的だった時代ですから、彼の決断は大きな意味を持ちます。
一方の敦賀の人々は、貧しい彼らを温かく受け入れたようです。
ところが日本に来たのもつかの間、その後の日独伊三国同盟で日本がドイツと手を組んだことで、彼らは日本に留まることができなくなります。
多くのユダヤ人は、アメリカへ渡る運命となったのです。
軍国主義の日本が、第二次世界大戦に突っ走っていった時のことです。

 目頭に溜まる涙を抑えつつ「敦賀ムゼウム」を出て、敦賀港線の線路を眺めに行きます。
かつてはここから大陸に続いていたと思うと、胸が躍ります。
今は廃線となり列車は走っていませんが、貨物の整理をする場所としてリフトが行き交います。

 次は「金崎宮」に向かいます。
「赤レンガ倉庫」の横を通り、敦賀港線を渡っていきます。
1905年に建てられた「赤レンガ倉庫」は、当時は石油貯蔵庫として使われ、数年前までは昆布貯蔵庫として現役で働いていました。
今は使われていませんが、福井県内でも有数のレンガ建築物です。
「金前寺」を抜けて山道を上ったところに、「金崎宮」があります。
1336年に恒良、尊良両親王を守護した新田義貞が足利軍と戦った古戦場で、両親王が「金崎宮」に祀られています。

 さて、これからは西の方に少し歩き昼食にしましょう。
「妙願寺」を越え、相生町の「ヨーロッパ軒」へと向かいます。
敦賀といえば「ソースかつ丼」が有名ですが、「ヨーロッパ軒」はそのかつ丼を出してくれるお店です。
ビルの外見は、一見すると如何わしいホテルのようですが、れっきとしたかつ丼屋さんです。
丼の上には3枚のどす黒いのカツが、ご飯を見えないように重なり合って敷かれています。
なんだか硬くて味の濃いような見栄えなのですが、口に入れてみればそれは柔らかいお肉です。
そして酸っぱそうに見えるソースは、コクが効きちょっぴ甘味があるカツに合う味です。
ビールとかつ丼、これだけで満足です。

 昼食休憩の後は、「みなとつるが山車会館」、そして「市立博物館」を巡ります。
「市立博物館」は、1927年に大和田荘七が建てた大和田銀行の本店を利用しています。
私も間違えましたが、「大和銀行」ではありませんので。
石造りの3階建てて、この地方の銀行として栄えましたが、1件1銀行の整理から福井銀行に合併されることを嫌った大和田銀行は、三和銀行(現在の三菱UFJ銀行)の下に就くことになります。
博物館内には、敦賀の歴史と民俗の数々が展示されています。
昨晩のデジカメの充電を忘れたことで、ここに来てバッテリー切れになってしまいました。
博物館の方に無理を言って、入館している間充電をお願いしたのでした。
勝手なお願いを引き受けていただき、ありがとうございました。

 そこからは、祈念石のある「晴明神社」に参ったあと、「気比の松原」、そしてその先の酒蔵の並ぶ街並みを眺めながら、「気比の松原」方面へと進みます。
「真願寺」では、敦賀城跡を示す石碑があります。
やがて道の両側に民宿が見えてき、その先が「気比の松原」です。
海岸線に沿ってアカマツ林の公園が続き、林の中は散策路が整備されています。
「気比の松原」は、「三保の松原」、「虹の松原」に並ぶ、日本の三大松原のうちのひとつに数えられています。
バーベキューを囲み楽しそうにするグループがいるなか、浜の方では投げ釣り人が横一列に並んでいます。
白いしぶきをあげて波が来ては引いていく様子をポケッと眺め、ここまで歩いてきた足を休めるのでした。

 あとは、JR敦賀駅まで戻るだけです。
座禅体験のできる「永建寺」を越え、「来迎寺」に向かいます。
「来迎寺」では、敦賀城裏門が現役の寺の門として残されています。
色々な観光案内では裏門、来迎寺では中門として表現が微妙に違うのが気になりますが。
そして笙の川を越えた東側には「八幡神社」があり、民家の1室を解放したような敦賀郷土博物館も併設されています。

 最後に福井に来たなら、この食べ物でしょう。
「焼き錆寿司」は脂がのっていて、絶妙の美味しさでした。
これで満足したはずが、JR敦賀駅の待合室で電車を待つ間に食べたアイスクリームがここまでおいしく感じたのは、思った以上に今日は歩いたということでしょうか。

   
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