にっぽんの旅 北陸 福井 小浜

[旅の日記]

鯖街道の起点の小浜 

 福井県の西の端、若狭湾を望む小浜に来ています。
敦賀からはJR小浜線で約1時間のところです。
北前船で栄え、京都、大阪への物資輸送の拠点となった小浜の町を、本日は散策します。

 駅前からは商店街が伸びています。
商店街に沿って、北西の方向に歩いて行きます。
商店街が終わる交差点のところでは、右手に90度曲がったところに再び短い商店街が現れます。
通りには「鯖街道起点」と示されています。
そう、ここから京都へ鯖を運ぶ「鯖街道」が通っていたのです。
それまでは気にされていなかった鯖ですが、美味しい鯖が獲れるとわかれば需要はうなぎ上りに増えていきました。
運び手は先を争って、京都に鯖を届けたのです。

 商店街ではそんな鯖を、豪快に串に刺して炭火焼をしています。
「浜焼き鯖」と呼ばれる、鯖の丸焼きです。
香ばしい美味しそうな匂いが食欲を誘うのですが、鯖が丸々1匹あるわけですからかなりの量がありそうです。
今は我慢することにします。

 それでは商店街にある「鯖街道資料館」に寄ってみましょう。
「鯖街道」とは若狭湾で取れた鯖を、一塩して新鮮なうちに夜も寝ないで京都まで運ぶために通った道のことをいいます。
琵琶湖の西側を通る経路はいくつか存在していましたが、いずれも始点はここ小浜なのです。
無人の「鯖街道資料館」では、「鯖街道」の簡単な説明が表示されています。

 「鯖街道資料館」から出て、先ほどの交差点で道路を挟んだ向かい側にはまちの駅があります。
ここは敦賀の特産品や軽食の店があり、広場の反対側には「旭座」もあります。
明治時代が起源の芝居小屋です。
その後は庶民の集会場として講演会や祝賀会に使われ、昭和に入ると今度は映画館としても活用されてきました。
最後に倉庫として利用されていたところを、建物の状態が良く復原可能であることから、当時の姿に修復されたのです。
小屋の中は自由に見学することができ、花道を通って檜舞台までを実際に歩くことができます。
敷席170席、椅子席200席が収容できる小屋で、2014年に復元されたばかりのものです。

 そこから古い建物が続くはずですが、目的のものは何も見つかりません。
行ったり来たりを繰り返しますが、結局観光マップに載っているものはどこにもありません。
建物が見つからないのであれば、そこは仕方がないので海を見に行きます。
人魚の像である「マーメイドテラス」があります。
そして、その先には若狭湾が広がります。
湾内のせいもあり、本日の海は穏やかで真っ青な海がどこまでも続きます。

 と、ここで先ほどの建築物消滅事件の真相が明らかになります。
観光マップの「旭座」の位置がどう考えてもおかしく、かなりずれたところに記載されていたのです。
「マーメイドテラス」を起点にして地図を見ると、すべてがうまくいきます。
ここから改めて、駅西側にある古い町並みを見に行くことにします。

 この辺りから徐々に、古民家が出現してきます。
町屋が多く、鯖寿司屋、酒屋、若狭塗の店などが目につきます。
店頭には若狭塗の箸が台に入って並べられており、さながら日本で普及する前の元祖ショーケースってところです。

 そこに、大きな石鳥居が見えてきました。
鳥居の脇には、なめこ壁の蔵があります。

9月に実施される「放生祭」の山車が宮入りするのが、この「八幡神社」なのです。
「放生祭」は若狭地方最大の秋祭りで、殺生を戒めて捕えた魚や鳥を放つ儀式を行っていたので、この名が付きました。
京都の祇園祭の影響を受けた若狭の祭りで、山車や神楽、獅子が小浜市内を行列が駆け回ります。


 この先は、町屋が続きます。
そのうちの1軒が「街並み保存会館」で、町屋の内部が公開されています。
間口が狭く奥に細長い敷地は、奥まで続く土間に沿って部屋が並んでいます。
明治中期の典型的な町屋の姿を、今に伝えています。


 「街並み保存会館」の向かいには、周りの和風の建物とは違った西洋風の建物があります。
「都和菓子舗」で、大正と昭和の境である1926年のものです。
切妻造桟瓦葺2階建ての建物で、店舗兼主屋として使われています。

 それよりも洋風の建物が、そばにあります。
1925年に建設された「高鳥歯科医院」は、石張りに似た意匠のモルタルの外壁をもつ2階建ての診療所兼主屋の建物です。
壁に描かれたダビデ風の星型のレリーフが、特徴的です。

 「高鳥歯科医院」から少し離れたところに、「白鳥会館」があります。
1888年の大火後に土蔵造で建築された会館で、元は薬品製造販売を行う薬局だったところです。
建物の角や開口部廻りに煉瓦を使っていることが、ワンポイントのアクセントになっています。
煉瓦を使いた特異なアーチを形造る意匠は、ほかにも例が少なく貴重なものです。

 ここから少し西側に入り、「空印寺」を目指します。
若狭守護の武田元光が1522年に「後瀬山城」を築き、守護館も同じ地に置きます。
現在の「空印寺」は、この敷地跡に位置します。
関ヶ原の戦いで功績をあげた京極高次が若狭国主となった際には、守護館の主ともなります。
その後、小浜藩主 酒井家の菩提寺となり、酒井忠直の時の1688年に伽藍を増築して「空印寺」と称するうようになりました。
人魚の肉を食べて不老不死の力を得たという八百比丘尼(やおびくに)の言い伝えがありますが、ここ「空印寺」の山門の前には八百比丘尼が入定したという洞窟が残されています。

 さらに西に向かって歩きましょう。
JR小浜線の線路脇に「常高寺」の入り口があります。
左右に東光寺、栖雲寺を見ながら奥に進むと、正面の石段の先には「常高寺」を目にすることができます。
ただし石段は行き止りになっていて、上ることができません。
なぜかというと、階段の登り切った辺りをJR小浜線が横切っているからです。
脇の小道を標識の示す方向に進み、線路の下を潜って大回りして「常高寺」に進みます。
ちょうど線路を過ぎた辺りには、「滝の水」があります。
天満宮が近くにあることから、この湧き水を飲むと頭が良くなるとの謂れがあります。
この水で作った酒を中国に持って行ったところ、腐ることがなかったことから古くから酒造りの水として使われてきました。
そんな「滝の水」から坂を上ったところに、「常高寺」があります。
浅井三姉妹の次女 初で京極高次の正室である「常高院」が、夫 京極高次を弔うために建立した由緒ある寺院です。

 さてこれから先が、本日の小浜旅行で一番の訪れたかったところなのです。
今まで見てきた商人の町屋とは違い、花街で華やかだった場所です。
北前船で栄えた敦賀は、花街も例外ではなくたいそう賑やかでした。
そんな茶屋が3丁(330m)の長さで並んでいたことから、「三丁町」と名付けられました。
遊廓が軒を連ね、そのうちの一つの「逢嶋楼」に入ることができます。
「逢嶋楼」は県令なども利用していたといわれる高級料亭です。
入口を入ると、女将が火鉢の番をするために控えていた小部屋があります。
天井には神棚が並ぶ畳の間です。
客はこの前を通り2階に上がり、そこには食事を広げる間と芸子が舞を舞う間が続きになって残されています。
それぞれに満月と半月の対になった床をもち、基本的には襖で仕切らない造りになっています。
そしてその脇には小さな小部屋も用意されています。
部屋の造りや当時の様子などをひとつひとつ説明してもらいながら、部屋を見て回ることができるのです。

     

 この花街の裏手には寺町が広がり、ここに「庚申堂」もあります。
年に一度の庚申大祭の日には、こんにゃくを食べて厄を払います。
そういえば、花街の通りにこんにゃく屋があったのは、このことが関係しているのでしょうか。
そして厄除けの「身代わり猿」も、ここ「庚申堂」に関係するものです。
「庚申さんの身代わり猿」と呼ばれているもので、そういえば町の家の軒下に吊るされていました。
やっと謎が解け、すっきりしたのでした。

 それでは駅に戻り、昼食としましょう。
小浜に来たのなら、やはり鯖を食べていきましょう。
注文した焼鯖定食は、脂が乗っている柔らかくてジューシーな身の鯖です。
多く見えたご飯もふっくらとしていて、量を感じさせません。
獲れたての美味しい魚を食べ、妙に贅沢な気分にさせられた一瞬でした。

 食後は、駅の東側を巡ります。
これまでと違い、見どころの1軒ずつが点在しています。
大手通りを進み、まずは湧き水が出る「雲上水」に向かいます。
港に面した水汲み場である「雲上水」には、ペットボトルやタンクを持った人が水を汲む順番を待っています。
身なりからして地元の人のようで、生活の水として利用されているようです。

 その次は「聖ルカ教会」を訪れてみます。
1897年に建築された初代の教会は煉瓦造りでしたが、1931年に木造の2階部分の礼拝堂を改築したものです。
道路から見ると、珍しい木造の教会に見えます。

 さてかなりの距離を歩き、疲れてきたのでこれから訪れるのが本日最後の訪問とします。
最後に訪れたいところとして選んだのは、「順造門」です。
江戸時代に第10代小浜藩主 酒井忠貫が、1774年に造った藩校「順造館」の正門です。
今は「県立若狭高校」の正門として使われています。

 歴史ある小浜を歩き回った、秋の1日でした。
しかし小浜といえば、もうひとつ欲しいものがあります。
レンコダイを塩漬けにした「小鯛のささ漬け」で、ご飯が欲しくなる一品です。
もちろん日本酒にも合い、福井に来れば必ずお土産にするものです。
これを大事に買って帰ることにします。
今晩のご飯を今から楽しみながら、帰路に就いたのでした。

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