にっぽんの旅 北陸 福井 丸岡

[旅の日記]

日本最古の丸岡城 

 本日の訪問先は、「丸岡城」です。
福井には何回か訪れたことがあるものの、「丸岡城」までは足を運んだことがありませんでした。
バスで行かなければならず、福井駅からはある程度距離があるため、1〜2日の福井への訪問ではどうしても他の場所を優先してしまっていました。
しかし日本最古の天守閣であることなど、行ってみたかったところのひとつでした。

 「丸岡城」は、福井駅からは京福バスに乗り1時間弱のところにあります。
バスに乗る前に駅前の観光案内所に立ち寄ると、1日券を買えば得だとのアドバイスをもらい、その場で購入したのです。
「丸岡城」までの車窓からは、北陸新幹線の建設現場が見えます。
東京から金沢までつながった北陸新幹線ですが、今は金沢〜敦賀間に高架工事をしている最中です。
その先の大阪までは琵琶湖の東を通り東海道新幹線に合流するルート、琵琶湖の西をJR湖西線と並行して走り京都まで南下するルート、そして日本海を小浜まで突き進み昔の鯖街道を中するルートなどが検討されています。
果たして、決着はついたのでしょうか。

 バスは「丸岡城」手前のロータリーに到着しました。
ここからは「霞ヶ城公園」が広がります。
公園の一角には、日本庭園も整備されています。
しかしまずは石段を上り、今回の目的である「丸岡城」を訪れます。
「丸岡城」は織田信長の家臣でこの地を治めていた柴田勝家の甥、勝豊によって1576年に築城されました。
別名を「霞ヶ城」と言い、これは合戦中に大蛇が現れて霞を吹いて城を隠したことからこう呼ばれています。
「本能寺の変」後の清洲会議により勝豊は近江国長浜城に移ることになり、1582年には安井家清が城主になります。
ところが翌年に豊臣秀吉による北ノ庄城の戦いで柴田勝家が滅ぼされると、この地は丹羽長秀が支配することになり「丸岡城」には青山宗勝は入城します。
関ヶ原の戦いで西軍に着いた青山宗勝とその子の忠元ですが、秀吉の敗北により1600年には徳川家康の次男の結城秀康が越前国を入封し、「丸岡城」には家臣の今村盛次が入ります。
その後越前騒動で失脚した今村盛次に代わり、本多成重新たな城主となります。
そして福井藩2代目の松平忠直の豊後配流に伴い、本多成重は福井藩より独立して丸岡藩が生まれます。
ところが1695年に丸岡藩で本多家のお家騒動が起こり、これを機会に越後国糸魚川藩から有馬清純が入城します。
そうして明治維新を迎えて1871年には廃藩置県により廃城となり、天守を除いて解体されてしまいます。
唯一残った天守ですが、1948年の福井地震では倒壊してしまいます。
しかし再建を熱望する世論に推され、1955年には倒壊材を元通りに組み直して天守は修復されました。
北陸地方で現存する天守は、丸岡城のみなのです。
そればかりか「丸岡城」は現存する現存する日本最古の天守閣です。

 城の中に入ると急な階段に驚きます。
居住のための城というよりは、戦うための城の様相を呈しています。
小高い丘に築かれた城の1階には、壁に石落としや狭間(さま)が備わっています。
ここから敵に石を落としたり、弓や鉄砲を撃つためのものです。
62度の急傾斜な階段は見た目は直角に立っているように見え、上から垂らされた縄を伝って登ります。
縄には等間隔に結び目が入っており、これを頼りに滑り落ちないように注意して上がります。
やっとの思いで登った最上階からは、丸岡の町を一望できるのです。

 城を出て「霞ヶ城公園」内には、「丸岡歴史民俗資料館」があります。
ここでは本多氏、有馬氏の歴代城主のゆかりの品々が展示されています。
武具や調度品、古文書などを見ることができます。

 この近くに、もう1件寄りたいところがあります。
これは、「一筆啓上 日本一短い手紙の館」です。
本多作左衛門重次が陣中から妻にあてた手紙が、簡潔明瞭に用件を伝えた手紙の手本と言われています。
短い文面ですが、その中に妻や子を気遣う優しさをうことができます。
手紙の中に出てくる「お仙」は、後の丸岡藩主となる本多成重のことです。
館の中には短いながらもほのぼのとする手紙が、展示されています。
ちょうど訪れた時は、学校で生徒が先生に向けて書いた手紙がありました。

 それではもう少し丸岡の町を巡ってみましょう。
「國神神社」は継体天皇の子である椀子皇子(まるこのおうじ)を祀った神社です。
継体天皇の第2皇子である椀子皇子が生まれた地「磨留古乎加(まるこおか)」に、皇子の胞衣を埋め神明宮としたのが「國神神社」の起こりとされています。
1576年には柴田勝豊が丸岡城を築いた際に神社も現在の場所に移され、それ以降丸岡城の歴代城主の保護を受けてきました。
福井大震災では杜殿が倒壊焼失しましたが、1962年に本殿を再建し今に至っています。

 その先の「本光院」は、丸岡藩主 本多家の菩提寺です。
道からは少し奥に入ったところにあります。
徳川家康の家臣である本多重次をはじめ、初代藩主 成重、2代藩主 重能、3代藩主重昭の4基の五輪塔が並び、歴代本多家がここに眠っています。

 ここから一筋西の通りを、今度は城の報告に戻っていきます。
通り沿いには、見上げるような大きなタブの木が立っています。
樹齢450年と思われるこの大木は「丸岡城」築城からこの場に根をおろしていたもので、城とともにこの地を見守っています。

 さらに先を進むと「圓光寺」があります。
おもしろい竿石があるということで、訪れてみました。
境内にあると言われる竿石ですが、なかなか見つけることができず境内から一旦外に出た川辺に立っています。
竿石の上部が膨んでおり、そこに十字架を模られている「キリシタン燈籠」です。
江戸時代になりキリシタン禁制のなかで、丸岡藩主 有馬清純の曽祖父である有馬晴信が持ち込んだものとされています。
晴信は肥前島原時代にキリシタン大名であり、丸岡藩に入封した際に墓石とともに隠して運んだものです。

 再び福井駅に帰り、福井の美味しいものを食べることにしましょう。
「越前がれい」は身がふっくらとしており、食べごたえがあります。
焼いただけの素朴な調理なのですが、旨みが凝縮されておりご飯が進みます。
そしてもうひとつ注文したのは、油揚げです。
この地方で作られる「竹田の油揚げ」で、びっくりするほどの大きさです。
写真は、食べやすい大きさに切ったものです。
表面はカリカリして、中は豆腐の甘みがあります。
醤油を垂らし、それだけでもビールが進みます。
「竹田の油揚げ」を平らげ、「越前がれい」を定食で食べて、満足の福井を味わったのでした。

旅の写真館