にっぽんの旅 北陸 福井 熊川

[旅の日記]

鯖街道の熊川宿 

 「熊川宿」に来ています。
ここは小浜から京都まで伸びた、いわゆる「鯖街道」の宿場町です。
全国的にはそれほど知られてはいないかも知れませんが、古い町並みが整備され残されています。
そんな「熊川宿」を、訪れてみます。

 「熊川宿」には、JR湖西線の近江今津駅もしくはJR小浜線の上中駅からバスを利用しなければならず、必ずしも交通の便が良いとは言えません。
それだけに観光地化されずに、古い風景が多く残っているのです。
上中側の下ノ町から、近江今津側の上ノ町に向かって歩いて行きます。
下ノ町は商店もなく民家が並んでいるため、観光客も少なく静かな町です。
家々の軒は高さが揃っており、通りを眺めても綺麗な街並みです。

 下ノ町から中ノ町との境目には「まがり」と呼ばれる道が矩形になった場所があります。
これがあるせいで、観光客で賑わう中ノ町からは街並みが切れたように思えるのでしょう。
おかげで下ノ町では、静かな生活ができるようです。

 ここから先は中ノ町です。
「まがり」のところには、古民家を利用した画廊があります。
先に進むと「倉見屋荻野屋住宅」があります。
ここは「熊川宿」で最も古い町屋で、昔の問屋の姿を今に残しています。
問屋場とは、各地に送付される幕府の書状の継立や、参勤交代の大名行列に対し人足や馬を取り仕切る場所で、宿場には本陣とともに大切な役割をしていたものです。
この土蔵からは、街道で運ぶ荷物が出てきたということです。

 その向かいは、「松木神社」への参道の入り口です。
寄り道をして階段を上り、神社に向かいましょう。
「松木神社」には、若狭の松木庄左衛門が祀られています。
「熊川宿」が見渡せる広い境内には元小浜藩の12棟の米蔵があり、年貢米3万俵が収納されていました。
境内には「松木神社」の小ぶりな拝殿、本殿がポツリと建っています。
同じ境内には、庄左衛門の遺徳を称えて1935年に建てられた義民館があります。

 「松木神社」の隣には、「徳法寺」があります。
織田信長が越前の朝倉義景を攻めるために、豊臣秀吉、徳川家康を従えてこの地を進攻します。
その際に熊川で泊まったのがこの「徳法寺」だったのです。
境内には家康が腰を掛けたとされる「家康腰かけの松」があります。

 その隣は「白石神社」です。
拝殿までは、しめ縄のかかった立派な石鳥居を潜り「徳法寺」を右手に眺めながら坂を上っていきます。
熊川地区の氏神であり、5月の祭神では山車がここから巡行します。

 中ノ町の中央には、朱色に色付けされた「菱屋 勢馬清兵衛家」があります。
屋号を「菱屋」と呼ぶ旧問屋です。
家の前には通りに沿った水路である「前川」があり、そこを越えていく形になります。
家全体が赤く、格子の入った窓が特徴のある問屋です。

 その先にある広場が、「熊川陣屋跡」です。
小浜城主 京極高次の時に、熊川に陣屋が設けられました。
その後の小浜城主 酒井氏の時にはこれから向かう熊川奉行所も置かれ、熊川が名実ともに「鯖街道」の主要拠点と位置付けられたのです。
ここ熊川は、古くは北前船が若狭で下ろされた荷物を京都や大阪に運ぶ中間点として栄えます。
そしてその後は小浜で鯖が獲れるとわかると、今度は鯖の運送の中継地として栄えてきました。
熊川の象徴ともいえるのが、この「熊川陣屋」だったのです。

 さらにその先に「宿場館」があります。
伊藤竹之助が1940年に熊川村役場として建てたものです。
寄棟瓦葺の2階建ての建物で、入り口部分には越屋根を供えています。
今では「若狭鯖街道資料館」として、利用されています。

館内では「鯖街道」の説明を受け、「鯖街道」と「熊川宿」の歴史と資料が展示されています。
しばらくは足を休ませることも兼ねて、ここで「熊川宿」の歴史を勉強することにします。
ちょうど「宿場館」にはコインロッカーもあり、荷物をここに預けて身軽な姿でこの先を歩き回ります。

 引き続き南に向かって歩いて行くと、「逸見酒店」があります。
水が綺麗な熊川ですから、何か旨い酒があるのではないかと立ち寄ります。
その名の通り「熊川宿」という名の酒が置いてあります。
まろやかな飲みやすい酒です。

 その隣には、同じ名前の付いた「旧逸見勘兵衛家住宅」があります。
逸見勘兵衛はここ熊川で生まれ、のちの伊藤忠商事で2代目社長となった人物です。
伊藤忠兵衛によって麻布類を取り扱う卸売業として1858年に創業します。
その後は大阪に「紅忠」を創立し、「紅伊藤本店」とします。
逸見勘兵衛の働きぶりを認めた忠兵衛は、2代目伊藤忠兵衛として勘兵衛を社長に迎え入れます。
会社は発展を続け、今の巨大企業の伊藤忠商事になったのです。
そんな源が、ここ熊川から出たということは、偉大なことです。

 「旧逸見勘兵衛家住宅」の隣は、河内川を横切る「中条橋」があります。
この橋の先が、上ノ町になります。
少し進むと、突然通りの脇に大きな岩が横たわっています。
これが「大岩」で、別名を「子守り岩」とも呼ばれています。
子供がこの岩で遊ぶのですが、決してけがをしないことからこう呼ばれてきました。

 右手には「権現神社」もあります。
その昔上ノ町の道の表面にに白い石が現れると、村に火災や水害が起きていました。
そこで村人が相談をして社を建てこの白い石をお祀したのが、「権現神社」の起こりです。
権現さんと呼ばれる水雨火防の神が祀られています。

 そしてその先に「熊川番所」があります。
徳川幕府の時代に、番所では女子の通行手形改めや物資への課税徴収などが行われていました。
「入り鉄砲に出女」をいう言葉が残っているように、幕府はもともとは江戸に入ってくる鉄砲と、大名の家族が江戸より出て行かないように取り締まっていました。
幕府は人と物資の出入りを厳しく監視しており、ここ「熊川宿」も例外ではありませんでした。
そんな番所が今も残っているのです。

 さて、恒例のお土産探しといきましょう。
酒にも気が引かれるのですが、毎度自分だけの土産と非難されることを心配して、他のものを探してみます。
「鯖街道」だけあって、「鯖寿司」を扱っている店が数軒あります。
そんな1軒から、「焼鯖寿司」を買って帰ることにします。
帰りはバスで近江今津駅まで揺られ、そこからJR湖西線で帰路についたのでした。

   
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