にっぽんの旅 北海道 北海道全域 松前

[旅の日記]

北海道唯一の城 松前 

 今回の旅は、北海道の南端である松前です。
かつては城下町として栄え、今は漁業の町である松前を訪れます。

 松前へのアクセスは、決して容易ではありません。
函館から日に数便出るバスに乗るか、JRで最寄駅の木古内まで出て、そこから路線バスに乗るかの二者択一です。
木古内駅はJR津軽海峡線およびJR江差線の終点駅で、北海道最南端の駅でもあります。
そう書くと大きな駅に聞こえますが、両路線を跨って走る特急の単なる停車駅に過ぎません。
こんな田舎の駅ですが、北海道新幹線が開通すると停車駅となり、人の流れが変わるかもしれません。

 バスは一部山手に入るものの、それ以外は北海道南端の海岸線をなめるように走ります。
木古内駅でバスの発車を待っていると、電車の到着が遅れているのでバスの発車も遅れるとのアナウンスが響きます。
バスの中には2〜3組の乗客がいるだけですが、そのうちの一人の女性が「それでは松前城の本日の入場に間に合いませんね」と運転手に駆け寄っています。
そうなんです。バスが着くのが「松前城」の最終入場時刻までは5分余りしかないのです。
だって、私も松前城に滑り込み入場をしようと考えていたうちのひとりですから。
耳を凝らして二人の会話を聞いていると、「少々の遅れでも走っている間に取り戻しますよ」という運転手。
乗客は一旦は引き下がったものの、運転手がたたみかけるように「バス停から城までは15分くらいかかりますよ。前も同じようなお客さんがいてバス停にタクシーを手配しましたが、どうされます?」と。
女性はしばらく考えたあげく、本日の松前行きを諦めたらしくバスを降りて行きました。
城に今日行くころができなければ明日朝から活動しようかと、松前に停まることを決めていた私は強行出発したのでした。

 バスは、5分ほど遅れての出発です。
のどかに海岸線の道路をひったりと走って行きます。
運転手が遅れを取り戻せると言っていた意味が、判るのでした。
ただ天気は悪く、どす黒い雲と暗い海とで水平線が判別できない状態です。
バスは1時間30分ほど、松前まで走り続けたのです。

 バスが松前の町に入ると、バス停「松城」で降りて「松前城」に走り出します。
「松前城」の発券所に着いたときには、入場最終時刻まで1分として余裕がありませんでした。
「今からでも入れますか」と聞くと、快く切符を切ってくれたのでした。
アイヌの砦を除くと、「松前城」は北海道内で唯一の日本式城郭です。
松前は蠣崎家(後の松前家)が大館より移り住み、1600年に陣屋を築いたことに始まります。
ロシア艦隊など海外からの来航が始まると、幕府は北方警備を目的に松前崇広に松前築城を命じます。
1868年、蝦夷地に独立政権樹立を目指す旧幕府は、五稜郭を制圧した後、元新選組の土方歳三が松前城を攻撃し落城させます。
しかし、翌年には榎本らの旧幕府側の政権は降伏し、再び松前城は松前氏の領有となりました。
ところが1949年に発生した松前町役場からの出火が飛び火し、天守と本丸御門東塀は焼失します。
今残る天守は再建されたもので、「松前城資料館」として利用されています。

 「専念寺」は、浄土真宗では北海道最古の寺です。
山門を入ると本殿までの通りに、見事なアジサイが咲いています。
都会では珍しくなったカタツムリが、ここでは目にすることができたのです。

 本日は日も暮れそうなので、宿に入ります。
その途中、宿までの道にあったのが「松前駅」の碑です。
「松前駅」は、国鉄時代に木古内駅につながる松前線の終着駅です。
1988年には廃線してしまいます。
この路線があれば、もっと楽にここに来れたのではなかったでしょうか。

 宿では松前の海の幸を、これでもかというほどいただきます。
刺身は新鮮、もずくは薄味の出汁なのに美味しく、カサゴ科の魚で骨まで食べられるソイ1匹まるごとの揚げ物など、どれも美味しいものばかりです。
それだけでも十分なのに、ホタテ、うに、アワビ、サザエ、タコの刺身、アスパラのてんぷら等々、ビールを飲むのも忘れて食べる続けます。
ふっくら炊けたご飯には、めかぶの味噌汁、そしてこの地方の「松前漬」が付きます。
その日は満足して、床に就いたのでした。

 翌日は朝からも魚を腹に入れ、「松前藩屋敷」を訪れます。
ここは藩政時代の松前を再現したテーマパークです。
敷地内には、海の関所である「沖の口奉行所」、ニシン漁で活気づいた番屋や廻船問屋、旅籠屋や武家屋敷などが並び、当時の様子を知ることができます。
どの建物に入っても単なる旅行者の私に、お茶を出してくれたり気軽に話しかけてくれます。
それによれば、「よくまぁ来たね。松前までやって来る人はめったにないょ」「冬は寒く風が強いためかえって雪は積もらない、その代り体感温度は気温より3度は低い寒い冬だょ」ということでした。
なんとなく都会から離れた厳しい冬が目に浮かびます。
「松前藩屋敷」の北側には、日本庭園が広がっています。

 ここからは、松前の寺院を巡ってみましょう。
「松前藩屋敷」から「松前城」に向けて歩いて行くと、そこにある「法幢寺」の中の「松前家墓所」に寄ります。
敷地を壁で覆い、その中に松前家代々の墓が並んでいます。
珍しいことに、それぞれの墓が家のように壁と屋根で囲まれているのです。
足元には石が敷かれていますが、苔が生して滑るので歩くのも大変です。
人里離れた静かな「松前家墓所」です。

 「法源寺」は1469年に僧 随芳が奥尻島に草庵を結び、「法源寺」と名付けた寺です。
その後の1490年に奥尻から大館に移され、松前家の菩提寺として手厚い加護を受けます。
現在の場所に移ってからは、法源寺の本堂が戊辰の役で焼失し、山門と経堂を今日に残すのみです。
山門は、北海道最古のものです。

 「龍雲院」は、1625年に開かれた寺院です。
ここは、戊辰戦争で戦火をまぬがれた唯一の寺です。
伽藍や本殿を今に残しています。
境内には本殿前に銘木の蝦夷霞桜がどっしり植わってます。
この地方は、春には桜一色になることでも有名なのです。

 ここまで来ると「松前城」が目の前に見えます。
その裏にあるのが「松前神社」で、松前藩の先祖である武田信広公を祀るために造られました。
鳥居の先に、木造で素朴で優美な社殿が見えます。
現在の神明造りの社殿は、総ヒノキ造りで再建されたものです。

 「松前城」を一筋東に進んだところに、「阿吽寺」があります。
ここは松前藩の祈願寺だったところです。
津軽の蝦夷管領 安東盛季が南部氏との戦いに破れ、菩提寺だった寺号を松前に再興したのが「阿吽寺」の興りです。
その後1513年には大館に移し、松前福山館の鬼門を守るため1617年にこの場所に移ってきました。
山門は「松前城」の旧寺町御門を移築したものです。

 最後に海岸線に出て、大海原を眺めます。
昨日までは荒れていた海も、今日は穏やかなようです。
美味しいものを食べ、日本最北端で北海道唯一の城下町を満喫した松前の旅だったのでした。

 
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