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[旅の日記]

洋館と夜景の函館 

 本日は、函館の洋館巡りです。
1854年の日米和親条約の締結により、幕府は箱館と下田の開港を決定します。
1859年には長崎、横浜とともに日本初の貿易港として開港したことから、函館には数多くの洋館が存在します。
そんな函館の街を、巡ってみましょう。

 JR函館駅に着いて、いきなり向かったのがラーメン屋です。
塩ラーメンで有名な函館ラーメンですが、店に着いた時には入店するための順番の列ができていました。
11:00過ぎに到着したのですが、11:00開店の店の前では既が列を作っていたらしく、第1弾で入れなかった客が並ぶといった繁盛ぶりです。
その列の最後尾に並び、順番の来るのを待つことにします。
10分ほど経つと、店内に案内されます。
待っただけあって澄んだ薄味のスープは旨く、柔らかいチャーシューも口の中で溶けるようです。
麺をすすり、あっと言う間に完食してしまいました。
函館に来てやりたかったことのひとつを、先ずは達成したのでした。

 次に向かったのが、函館市電です。
珍しい車両が走っていると聞いて、実は時間を調整していたのです。
函館駅前の電停に行くと、なんともレトロなチンチン電車がやってきました。
1910年に千葉県成田市で運行された車両が函館へ移り、客車として運行されている「箱館ハイカラ號」です。
一時はお蔵入りになった車両ですが、1992年の函館市制70周年記念事業のひとつとして、再び走るようになったのです。
中に入ると壁一面木目調の様子が、心を落ち着かせてくれます。
他の車両はワンマンカーなのですが、この「箱館ハイカラ號」だけは昔ながらのいでたちをした車掌が乗っています。
レトロな雰囲気の中、車窓の景色を楽しんで十字街電停に着いたのでした。

 十字街の交差点には、勇壮な洋風の建物があります。
「函館市地域交流まちづくりセンター」です。
1923年に丸井今井呉服店の函館支店として建築された、3階建の洋風建築です。
その後売り場面積を拡大するために5階まで増床され、今の形になっています。
丸井今井呉服店が発展した百貨店の丸井今井函館店、函館市役所末広町分庁舎を経て、今の施設に生まれ変わりました。
交差点に面した角を円形に模り、その屋上にはドーム型の展望室が設けられた美しい建物です。

 ここから市電と並行して走る1筋海側の通りに移ります。
ツタの絡まる煉瓦造りの建物の中に「はこだて明治館」はあります。
1911年に完成した函館郵便局だったところを、ショッピングモールとして利用しています。
ガラス細工とオルゴールが飾られています。
アーチ型の窓枠が美しい煉瓦館です。

 この辺りをぶらぶらしてみましょう。
蔵を利用した「函館高田嘉兵衛資料館」があります。
北前船で巨額の財を成した成高田屋嘉兵衛ゆかりの品々を、展示しています。
淡路国津名郡都志本村の百姓 弥吉の長男として生まれた成高田屋嘉兵衛は、22歳になると兵庫津堺屋喜兵衛を頼って兵庫津に出て廻船問屋の奉公に入ります。
その後熊野灘でのカツオ漁に就くなどして資金を貯め、千五百石積みの「辰悦丸」を手に入れます。
辰悦丸を入手した嘉兵衛は蝦夷への進出を試みます。
ところが当時栄えていた松前は近江商人などが利権を確立しており、新参者が入る余地などありません。
仕方なくまだほとんど開発されていなかった箱館に入り、新路線を開拓します。
兵庫津で酒、塩、木綿などを仕入れ酒田に運び、酒田では米を購入して箱館に運んで売り、箱館では魚、昆布、魚肥を仕入れて上方で売るという商売を始めたのです。
また、1799年には択捉島開拓の任に就いていた近藤重蔵に依頼され、国後島と択捉島間の航路を開拓します。
その功績が求められ、嘉兵衛は幕府から「蝦夷地定雇船頭」を任じられます。
ところが、ここでゴローニン事件に出くわします。
ゴローニン事件とは、1811年に千島列島で測量を行っていた軍艦ディアナ号のヴァーシリー・ゴローニンが国後島に入港した際、騙されて捕えられ松前で幽囚の身となります。
1812年、干魚を積み公文書を届けるために択捉島から箱館に向かおうとしていた官船 観世丸に乗る嘉兵衛が、ゴローニン救出を画策していたディアナ号副艦長のピョートル・リコルドが率いるディアナ号に拿捕されます。
ペトロパブロフスクに連行された嘉兵衛は、現地では自由が保障されていたものの一緒に連行された仲間が次々と病死し、嘉兵衛も不安を隠しきれなくなります。
嘉兵衛はリコルドに日本に行き日露交渉を行うよう説得します。
カムチャツカの長官に任命されていたリコルドは嘉兵衛の要請を受け、自らが交渉に赴くことを決めます。
そうした介もありまた嘉兵衛の奔走もあって、松前奉行は1813年にゴローニンは無事釈放されることになります。
外国に行っていたため罪人扱いされた嘉兵衛ですが、翌年にはその疑いも晴れ事件解決の褒美として幕府から金5両を渡されます。
そんな波乱万丈の歴史が、この資料館では語られているのです。

 その先には「金森赤レンガ倉庫」が続きます。
渡邉熊四郎が1869年に金森屋洋物店を開業したのが、赤レンガ倉庫の起源です。
榎本武揚らが率いた旧幕府軍が洋装の官軍に次々と倒されるのを見て、洋服の時代になったことから金森屋洋物店を開業します。
1885年には、共同運輸会社と郵便汽船三菱会社が合併して日本郵船会社が設立されたことから、これまで共同運輸会社が使用していた倉庫が不要となり、熊四郎がそれらを買い取ります。
1887年からは倉庫業も始め、それが海運業の繁栄とともに大成功し、21棟の倉庫を有するまでになります。
今に残るのはその時の倉庫群で、レストラン、アクセサリーショップ、工芸品などの店が入っています。

 「旧茶屋亭」は、明治末期の海産商を営んでいた店舗兼居宅です。
1階が木の肌が出た和風建築、2階は木造の白壁の洋館つくりをした和洋折衷建築物です。
1988年施行の函館市の西部地区歴史的景観条例で、伝統的建造物に指定されました。
抹茶、あんみつ、コーヒーを中心とした喫茶店として営業しています。

 「旧本久商店倉庫」は青い蔵が目印です。
かつては酒屋の倉庫として使われていた建物が、現在は飲食店として使用されています。

 うろうろして、結局は元の「函館市地域交流まちづくりセンター」のそばまで戻ってきました。
ここから函館山に続く山手方向に、急な上り坂が通っています。
そのなかでもひときわ大きいのが、目の前にある「二十間坂」です。
その名の通り道幅が二十間(約36m)もあり、これは函館を幾度となく襲った大火に備えたものです。
道が広いが故、函館山要塞に備えるための大砲を搬送するのにも利用されたそうです。
坂の登りきったところには「真宗大谷派函館別院」があり、和風建築の細部までを鉄筋コンクリート造で表現した寺院建築としては日本最古のものです。

 坂を登ったこの辺りには、教会が続きます。
「カトリック元町教会」は、仮聖堂を経て1877年に初代聖堂が創建されます。
当時木造だった建物も大火のたびに立て直し、現在見ることができるのは3代目のゴシック様式の聖堂です。
真っ赤な屋根と高さ33mの尖塔は、異国に迷い込んだのような錯覚を起こさせます。
祭壇は、ローマ教皇ベネディクト15世から贈られたものです。

 「函館聖ヨハネ教会」は、1874年創建の英国聖公会の教会です。
英国人のデニング司祭が函館に上陸し、英国聖公会での布教の足掛かりとなった場所です。
尖った屋根とそのてっぺんに十字架と言った一般的な教会とは違い、この教会は曲線を帯びた独特の屋根の形をしています。
そして壁に埋め込まれた十字架が特徴です。

 そして「函館ハリストス正教会」があります。
1859年ロシア領事のゴシケヴィッチが、領事館内に聖堂を建てたのがこの教会の始まりです。
1861年に来日した修道司祭ニコライによって、日本正教会を広めていきます。
日本正教会で最初の聖堂を持つ教会であり、その後に建設された東京神田にあるニコライ堂の原点でもあります。

 ここから函館山の麓の高台を歩いて行きましょう。
辺りかしこがみな洋館です。
ふと右手を振り返ると、海まで真っすぐに伸びた270mの一本道が見えます。
そして先の函館湾には停泊している船が見え、その眺めは壮観です。
後になって気付いたのですが、この「八幡坂」は日本で訪れたい坂のベスト1に選ばれたところだそうです。
京都の産寧坂、長崎のオランダ坂を抑えての、堂々の第1位です。

 元町公園の北側には、「旧函館区公会堂」があります。
函館の大火により町会所が焼失した際、相馬哲平の寄付で1910年で完成したのが「旧函館区公会堂」です。
木造2階建ての擬洋風建築で、左右対称のポーチを持ち、回廊で結ぶ中央にベランダを有します。
2階に上がると130坪の大広間があり、磨き上げられた床が光り輝いています。
ブルーグレーとイエローで塗られた建物は、高台から函館港を見下ろす元町のランドマークです。

 元町公園には「函館市元町観光案内所」もあります。
こちらも大火によって焼失した北海道庁函館支庁を、1910年に復興完成した洋風建築物です。
観光案内所となる1階の奥には、昔から今に至るのカメラの数々が展示さています。

 元町公園の横には「旧相馬邸」があります。
戊申戦争終結後の米の騰貴を見越し、投機買いのよる巨利を得た相馬哲平の屋敷です。
その後も、ニシン漁に投資して一代で北海道屈指の豪商に上り詰めます。
そしてその社屋が、元町公園からの基坂を下りきったところにあります。
モスグリーンの外観は奇抜で、大正初期に建てられたルネサンス様式の木造洋館です。
函館の大火の後、コンクリート造りの建物が多くなった中でも、かたくなに木造建築にこだわった建物です。
1923年の大火では、当時函館一の豪華ホテルである万世ホテルや相馬社屋の向かいにあった日本銀行函館支店などが焼失するものの、この建物だけは何故か被害もなく強運の基に生まれた哲平の一面が見られます。

 「旧相馬邸」と「相馬社屋」を結ぶ基坂の途中には、「旧イギリス領事館」があります。
函館が国際貿易港として開港した1859年から、領事館として業務を続けてきました。
大火のたびに場所を替え、建て直してきたのですが、
現在の建物は、イギリス政府工務省上海工事局の設計によって1913年に竣工したものです。
正面に入り口がありますが、この建物の魅力はその奥にあります。
横手に回るとカーブを描いた窓をもつ洋風の建物の全景を見ることができます。
さらに裏に回ると、煉瓦が敷き詰められた庭園からの眺めを味わうことができます。
1992年の市制施行70周年を記念して「開港記念館」として公開されています。

 「旧イギリス領事館」から坂を下り、「相馬社屋」の向かいにある「函館市北方民族資料館」に寄ることにします。
重厚なドアを開けて、中に入って行きます。
それもそのはず、1926年に建設された旧日本銀行函館支店の建物を利用しています。
アイヌ民族および北方民族の衣装や生活用品が、展示されています。

 さて、ここから函館ドックに向かって進んで行きます。
次の信号を少し山側に入ったところにも、洋館があります。
「旧小林寫真館」で、1902年創業です。
石川啄木も通ったことのあり、道内でも現存する最古の写真館です。
一旦廃業し50年経っていたのですが、函館市の都市再生整備事業で店を復元し営業が再開されました。

 その少し上ったところの「函館中華会館」から、再び北に進みます。
5分ほど進んで見つけたのが「大正湯」です。
1914年創業の銭湯で、現在のかわいいピンク壁の洋館は1928年に建て替えられた建物です。

 さて本日の最後は、函館山に登ることです。
ロープウェイもありますが、バスにも乗れる1日券を買いましたので、それを利用しない手はありません。
夜景を見るには30分以上早いのですが、足が棒になりこれ以上動くのも辛いので、山頂に向かうことにします。
バスに揺られて山頂に着くと、平日だというのに既に人がいっぱいです。
町を見渡すことができる場所を探したのですが、先頭は陣取られていてその次の列に並んで陽が暮れるのを待ちます、
函館の夜景は、香港、ナポリとともに世界三大夜景のひとつに数えられています。
ますは、陽の高いうちに函館の風景を目に焼き付けます。
やがて徐々に周りは暗くなり、ポツリポツリと街灯が灯り出します。
先ずは道路が、そして家々の灯りが黄色く見えてきます。
しばらくたつと周囲はどっぷり日が暮れ、眼下の灯りが輝いて見えてきます。
時間とともに変わる函館の町の風景は、さすが三大夜景かと感心させられたのでした。

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