にっぽんの旅 中国 山口 下関

[旅の日記]

ふくの下関 

 本日は本州の西の端、下関に来ています。
普段は九州行きで通過してしまう下関を、巡ってみましょう。

 今回は門司から下関に入りましたので、JR鹿児島本線で下関に渡ります。
もちろん九州から本州へは陸続きの場所がありませんので、門司で交流から直流に電源を切り替えてから電車は関門トンネルを通ります。
関門トンネルは1939年にまず下りが完成し、1942年から営業運転が始まります。
上りは輸送力を見て建設をする予定でしたが、1940年には早くも着工が決定され、1944年には列車が走り出します。
つまりトンネル内は複線ではなく、上り下り別々の単線が2本から成る路線なのです。

 九州の玄関口である下関は、海の幸満載の町であるとともに源平合戦と幕末と歴史で翻弄された町でもあります。
さすがにふぐの町だけあって、電話ボックスや郵便ポストなど至る所にふぐの像があります。
そして下関駅の近くには、長い段石の先に「大歳神社」があります。
源平合戦において、平家追討のため西国へ向かった源義経が、武運の守護神である富士浅間神社の御祭神 大歳御祖大神に戦勝祈願を行ったところです。

 さらに東方向に、関門海峡沿いを歩いて行きます。
すると、背の高いタワーが目につきます。
「海峡ゆめタワー」で、153mにある球状の展望台からは巌流島、そして九州を臨むことができます。
夜はライトアップも行われ、夜空に美しい姿を映しだします。

 ここからはバスに乗り唐戸まで、国道9号線を関門海峡沿いに東へ進みます。
唐戸では「下関南部町郵便局」と「旧秋田商会ビル」が並んで建っています。
「下関南部町郵便局」は、1900年に建てられた下関に現存する一番古い西洋建築です。
三橋四郎が設計したこの建物は、60cmの暑さの外壁を持つ堅固なものです。
そして今でも現役で働く郵便局です。

 その隣にある洋館は、「旧秋田商会ビル」です。
西日本初の鉄筋コンクリート造りの建物で、中を覗くことができますので、入ってみることにします。
1915年に建てられた秋田商会の住居を兼ねた事務所です。
それをうかがわせるように、2階と3階には外観からは想像もつかないのですが、中は畳敷きの和室になっています。
現在は観光情報センターとして、1階が利用されています。

 「旧秋田商会ビル」と道をまたいだところに、煉瓦造りの「旧下関英国領事館」があります。
駐日英国大使アーネスト・サトウは、西日本の経済、交通の拠点である下関に英国領事館を設置することを本国へ申し出ます。
そして、1901年に英国領事館が下関に置かれることになりました。
現存する最古の領事館建築物ですが、ここでは本格紅茶が楽しめ、英国ビールにスコッチ・カクテルを楽しむことのできるレストランになっています。

 それでは「旧秋田商会ビル」「旧下関英国領事館」が道を挟んで立っている三叉路のもう片方の道向かいにある「唐戸市場」に向かいます。
昼時の市場は、観光客も押し寄せたいそう混み合っています。
ふぐはもちろんのこと、タイやハマチ、イカなどの採れたばかりの新鮮な魚が並んでします。
またそれらを使ったにぎりにも、人が群がっています。
でもやっぱり気になるのはふぐで、一夜干しした肉厚のふぐを土産に買ってしまいました。
火にあぶって酒のあてにして食べることを考えると、よだれが出てきそうです。
そして市場の外の関門海峡側には、「ふくのフクロ競り」の像が立っています。
売り手と買い手が袋に手を入れ、指を握って値段交渉を行っています。
昔は競りで喧嘩ごしになることを避けるために、どてらの袖に手を入れて穏便に値交渉を行っていたのですが、その名残がいまも残っています。

 そして次に訪れたのは「亀山八幡宮」です。
ここに山陽道の終点を示す碑が、建てられています。
国道沿いの大鳥居から延びる石段の先に、「亀山八幡宮」本殿があります。
859年に大安寺の僧侶 行教が京の都の守護のために、大分の宇佐神宮から京の石清水八幡宮に勧請される途中、ここに停泊します。
当時は亀の形をした島であった亀山ですが、行教は気に入り国主に命じて仮殿を造営させます。
関門海峡鎮護の神社として、歴代領主の大内、毛利氏らの崇敬を受けてきました。
境内には「波のりふくの像」が飾られています。

 さらに東に歩いて行きます。
「本陣伊藤邸跡」の碑が、駐車場の片隅に建っています。
長府藩の本陣でもあった伊藤邸は、鎌倉時代から続いた名家で大年寄りを務めた豪商です。
幕末には吉田松陰や坂本龍馬らとも交流があり、なかでも龍馬には屋敷の一部を貸与するなど、かなり親しい間柄でした。
また龍馬の勧めで名を「助太夫」から「九三」に改めたこともあったほどです。

 さらにその先には、ふぐ料理で有名な「春帆楼」があります。
「春帆楼」は後程また来ることにして、敷地内にある「日清講和記念館」に寄ってみます。
ここは1895年で開かれた日清戦争の講和会議の場所で、清国の李鴻章と日本の伊藤博文の間で日清講和条約が締結されたのがここなのです。
日清講和条約は、別名を下関条約とも言います。
「日清講和記念館」には、交渉で使ったテーブルが当時のまま保存され一般解放されています。
国道からはちょっと入ったところにあり人はまばらですが、ここに寄らない手はないのではないでしょうか。

 見所はまだまだ続きます。
5分も歩けば、竜宮城を思い出させるような色鮮やかで幻想的な造りの水天門をもつ「赤間神宮」があります。
1185年の「壇ノ浦の戦い」において幼くして亡くなった安徳天皇を祀る神社です。
平氏一門についた安徳天皇は、当時はわずかわずか8歳でした。
壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の遺体は見付けることができず、1191年に御影堂が建立されます。
第二次大戦で社殿は焼失しますが、1965年に竣工した新社殿がいまの「赤間神宮」なのです。
訪れた時には結婚式が行われており、「大安殿」では舞が舞われています。
琵琶法師の「耳なし芳一」の物語も、この「赤間神宮」が舞台なのです。

 先を進みましょう。
頭の上には本州と九州を結ぶ「関門橋」が見えてきます。
橋長1068mの1973年に開通した吊り橋です。
高速道路となっており、中国自動車道と九州自動車道で挟まれるこの間は「関門自動車道」です。
橋の下の関門海峡では大型船が行き交っており、桁下から海面までは61mの高さを確保しています。
潮の流れは思った以上に速く、川の中流を思わせるような早い流れで、方向さえ合えば動力なしで航行することができそうです。

 バス停「壇ノ浦」辺りの海峡沿いには、港の中に「蛭子神社」があります。
赤い欄干の小さな橋の傍らには、石が置かれ祀られています。
何故か気になって写真を撮ってしまいます。

 「関門橋」を越えたところが、「みもすそ川公園」です。
関門海峡の一番狭まったところで、「早鞆の瀬戸」といわれるところです。
「壇之浦古戦場」を一望できるこの公園には、八艘飛びの源義経像と碇をかついだ平知盛像があります。
1159年の平治の乱で源義朝を討った平清盛は、後白河法皇に近付き太政大臣にまで上り詰めて権力を拡大させていきます。
しかし清盛の力があまりにも強大になったために反感を持った後白河法皇に対して、清盛は法皇を幽閉してしまいます。
それに対して後白河法皇の次男である以仁王が、清盛の勝手な振る舞いに不満を持つ各地の武士たちに団結を呼び掛けます。
源義朝の子、源頼朝や源義経がそれに応え、1180年から始まった源平合戦ですが、1185年の壇ノ浦の戦いでついに平氏が滅ぼされたのがここなのです。

 「みもすそ川公園」は源平合戦の他にも、幕末には維新をかけた長州藩の拠点でもありました。
海峡に向かって設置されていた「長州砲」のあった場所で、いまは大砲のレプリカが並んでいます。

 そしてここには、人道の「関門トンネル」もあります。
関門海峡を貫き九州まで延びる海底トンネルです。
まずはエレベーターで、地下55mの地点まで降ります。
自動車専用の道路とは2階建てで区切られており、下を走る人道の方は車を気にすることなく無料で本州と九州を行き来することができます。
黄土色で塗られた歩道には、生活で利用する人、観光で渡ってみる人、そしてジョギングをする人が通っています。
トンネルの中に山口県と福岡県の県境があり、距離780mのトンネルの中央に当たります。

 珍しい海底トンネルを往復しエレベータで地上に上がると、それでは源平合戦の紙芝居が行われています。
源氏と平氏の権力争いの歴史が繰り広げられています。
そして語りの最後には、「壇ノ浦の戦い」で敗れた平氏の無念のため亡霊が乗り移った蟹「ヘイケガニ」の実物が登場します。
怒っている人面をもった「ヘイケガニ」を見て、帰りには絵葉書までいただいての紙芝居でした。

 さて本日の散策はこれで終了ですが、下関に来たからにはやはりふぐを食べなければ帰れません。
下関では「ふぐ」のことを「ふく」と呼び、幸福を呼び込むとして親しまれています。
1888年に時の総理大臣であった伊藤博文公が下関でふぐ刺しを賞味し、その美味に絶賛します。
このことから全国に先駆けて山口県はふぐの食用禁止が解禁されたということは、有名な話です。
では「春帆楼」でふぐ料理を頂きます。
そしてお土産に「辛子明太子」を。
「辛子明太子」は福岡のものを思うでしょうが、実は山口発祥の食べ物なのです。
ふぐ刺しから始まり、肉厚のふぐの身が入った吸い物、ふぐのてんぷら、ふぐご飯まで、ふぐ三昧の下関だったのでした。

   
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