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[旅の日記]

錦帯橋の岩国 

 岩国に来ています。
自衛隊の町でもある岩国ですが、本日の目的地は「錦帯橋」です。

 山陽新幹線の新岩国駅から「錦帯橋」までは、バスで15分強の時間を移動します。
バスといっても1時間に1本しかありませんので、駅でぐずぐずしてはいられません。
早速バス停に並びます。
ところが、風にあおられた強い雨が降っています。
これほどバスの来るのが待遠しかったことはありません。

 「錦帯橋」のバス停は、橋の真ん前にあります。
来ていきなりですが、まずは腹を満たします。
「錦帯橋」を眺めながら食事ができる店があると聞いて、そこに入ります。
「岩国寿司」は「殿様寿司」とも言われ、岩国城内で食べられていたものです。
一度に3升から1斗も入る大きな木枠の中に、サワラやアジなどの魚の身を混ぜ込んだ酢飯の上に、青菜、椎茸、錦糸卵などを乗せた押し寿司です。
これを一人分を切り分けて食べる岩国名物です。
それに同じく岩国名産の蓮根を使ったがんもどきが付きます。
そして蕎麦にも蓮根のてんぷらが付き、サクサクした歯ごたえが嬉しい品です。

 腹を満たすと、いよいよ「錦帯橋」を渡ってみます。
日本三名橋のひとつに数えられる3つ大きな反り橋とその両側の小さな反り橋が成す姿が特徴的で、以前から訪れてみたかったところです。
「岩国城」の城下町として栄えた岩国ですが、蛇行した錦川には昔から苦しめられてきました。
錦川に囲まれたこの地は自然の要塞としては優れた構造でしたが、上級武士が屋敷を構える「岩国城」側と中下級武士が住まいを構える対岸とは、藩政のために橋が必須でした。
川幅約200mの暴れ川である錦川に、増水しても流れない橋を架けることが必要です。
明の渡来僧が知る島伝たいに石橋が架かる橋を参考に、第3代藩主の吉川広嘉は児玉九郎右衛門に架橋を命じ、1673年にこの「錦帯橋」を完成させます。
横から見た橋も美しいのですが、真下から見た木の組み合わさった様子も美しい姿をしています。
この強固な橋も1950年の台風の錦川の大増水には勝てず、流されてしまいます。
しかし1953年には多くの橋を臨む市民の熱意で、再建されました。
それでは通行料を払い、橋に入場します。
雨でぬれた板の貼られた橋を滑らないように、慎重に進んで行きます。
橋の中央からの錦川の眺めも最高です。

 橋を越えた先には「吉香公園」が広がります。
その横には「香川家長屋門」があります。
ここは岩国藩家老香川氏の表門です。
1693年に造られたもので、岩国市の建造物としては最も古いもののひとつです。

 その先には、武家屋敷の「目加田家住宅」があります。
表から見ると平屋のように見えるのですが、裏に回ると2階部分が見える2階建て構造です。
この地方は錦川の氾濫に備えて、2階建の建物が多かったようです。

 それでは武具の展示館で有名な「岩国美術館」まで進み、その横にあるロープウェイに乗って城山山頂まで登ります。
山頂駅から目指す「岩国城」までは、徒歩で10分ほどの距離です。
そこには、4重6階の天守がそびえています。
「岩国城」は初代岩国領主 吉川広家が1608年に築いた城です。
錦川を天然の外堀にもち、標高約200mの城山に建って敵を寄せ付けない山城です。

1600年の関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元は、広島城から萩城に移封となります。
毛利家に加勢していた吉川広家も、同じころ米子城からこの地に当地に移封されて来ます。
山の麓には平時の居館となる「土居」、そして横山山上には戦時用の「横山城」が築かれ1608年に完成します。
しかし1615年には幕府の一国一城令により、「横山城」は廃城に追い込まれます。
築城後わずか8年で、惜しくも取り壊されることになったのです。
現在の天守は、1962年に再建されたものです。

 さてロープウェイで再び山麓まで戻り、そのそばにある神社に寄ります。
山麓駅の真横には「白山比盗_社」があります。
加賀の白山神社を勧請し、884年に社殿が創建されました。
神社の石鳥居は、4代藩主吉川広紀が1694年に寄進したものです。

 「白山比盗_社」から堀の橋を渡った先にあるのは「吉香神社」です。
吉川家の先祖29柱が祀られています。
元々は3社が敷地内にあったものを明治維新に伴う旧藩主の東京移住の際にこれらを1社に統合し、吉香神社とし1885年建立されたものです。

 帰りはJR岩国駅にバスで出ることもできたのですが、ここはあえてローカル線で向かいます。
ここから少し離れた川西駅には、「錦川清流線」が走っています。
錦川沿いに走る鉄道で、岩国駅から錦町までを結んでいます。
この「錦川清流線」ですが、ローカル線とは思えないようなカラフルで綺麗な車体で驚かされたのでした。

 
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