[旅の日記]
城下町 萩 

山口県の萩に来ました。
今日は、この萩の城下町
を巡ります。
海岸通りからは「萩城跡」のある指月山が見えます。
それでは、「萩城跡」を目がけて進みます。
関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏は、領地を周防国と長門国の2ヶ国に減らされます。
広島城を奪われ、新たな居城として1604年に築くのが「萩城」です。
実は完成したのは1608年なのですが、毛利輝元は、未完成のまま入城してしまいます。
城は、指月山の山麓にある平城(本丸・二の丸・三の丸)と、山頂にの山城(詰丸)に分かれています。
本丸御殿は藩主居館と政庁を兼ねており、250年の間、長州藩の拠点として活用されていました。
現在は石垣のみが残っており、一部の堀は復元ざれたものの、天守閣は解体されたままで、その地は「指月公園」として生まれ変わりました。

旧萩城の二の丸入口の近くには、「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋」があります。
毛利家一門のひとつである厚狭毛利家の武家屋敷です。
厚狭毛利家は毛利元就の5男の毛利元秋を祖とする毛利氏一門で、当時の萩屋敷は約15000m2もの広大な敷地を誇っていました。
現在は、1856年に建てられた本瓦葺き入母屋造りの長屋のみが残っています。
ここで「萩焼」の窯元を見に行くことにします。
1604年に藩主毛利輝元の命によって、朝鮮人陶工 李勺光、李敬の兄弟が城下で御用窯を築いたのが始まりとされています。
「萩焼」は、器の表面の釉薬がひび割れたような状態になる貫入が特徴で、使えば使うほどこの貫入に色が付き味が出てくるのです。
これを「七化け」と言い、器全体が程よく変色したかに見えてきます。
お土産に夫婦湯呑を購入しましょう。
次は「菊屋横町」まで歩きます。
ここは、白壁になまこ壁が美しい街並みです。
旧萩城の外堀の外に広がる城下町は、碁盤目状に区画整備され、中・下級の武家屋敷が軒を連ねていました。
御成道に面して藩の豪商、江戸屋、伊勢屋、菊屋などの商家が軒を並べていたため、御成道から南へ入る3つの横町にはそれぞれの名が残されています。
江戸屋横町には、「木戸孝允旧宅」があります。
木戸孝允の生家で、江戸に出るまでの約20年間をここで過ごします。
藩医の長男として生まれ、「桂小五郎」と名乗って尊皇攘夷運動に参加します。
坂本竜馬と共に薩長同盟のきっかけを作った小五郎は、西郷隆盛、大久保利道と並んで「維新の三傑」と称されています。
維新後に、今の「木戸孝允」に改名します。
一方の住居は、当時としては珍しい木造瓦葺の2階建てで、患者用と来客用の2つの玄関があります。
中には、孝允が誕生した部屋や勉強部屋などが残されています。
萩は「高杉晋作」の誕生地でもあります。
菊屋横町には、「高杉晋作」が生まれ育った家があります。
1839年に萩藩大組士 高杉小忠太の長男としてこの地に生まれ、藩校明倫館に通う一方で、吉田松陰が主宰する「松下村塾」にも入門します。
そして日本発の身分を問わない軍事組織「奇兵隊」を結成し、第二次長州征伐では幕府軍と対戦のうえ撃破します。
明治維新のため力の多大な尽くましたが、維新の実現を見ることなく1867年に29歳の若さで病死するといった一生を送りました。
敷地内には、晋作の写真や資料が展示されています。
ここから「松陰神社」に向かいます。
1890年に吉田松陰を祀って創建された神社です。
松陰の実家杉家の邸宅内に土蔵造りの小祠を建て、そこに愛用の赤間硯を御霊代として祀ったのが始まりとされています。
吉田松陰は1830年に長州藩士 杉百合之助の次男として生まれます。
叔父の玉木文之進のもとへ養子に入り、文之進の開いた私塾で学問に励みます。
そして日本各地を周遊して見聞を広めると、おりしも浦賀に来航したペリー艦隊に小舟で乗り付け、留学を直訴したことは有名です。
この件で萩に幽閉されたときに、叔父の塾名を継いで「松下村塾」を開くことになります。

それでは、「松陰神社」の境内にある「松下村塾」
を観ましょう。
幕末期に吉田松陰が玉木文之進が自邸に開設した私塾を。松陰の外伯父にあたる久保五郎左衛門が継ぎ、その後の1856年からは松陰が実家杉家邸内の納屋を増改築して開いた塾です。
塾では身分の区別なく学ぶことができ、数多くの逸材が輩出されました。
ここで松陰が指導したのは僅か2年半の間でしたが、久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋などがこの塾の出身者です。
瓦葺の塾の内部は、講義室だった8畳の部屋には松陰の像と机が置かれています。
そういえば、前回萩に来たときにはこの「松下村塾」の近くの民宿で泊り、当時は珍しかったニガウリをご馳走になったのでした。
若い舌には苦くて美味しさを感じられなかったのですが、民宿のおかみさんの勧めで嫌だとも言えずに食べたことを思い出しました。
そのほか、長州藩の藩校である「明倫館」もあります。
こちらは、水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷黌と並び、日本三大学府のひとつと称されたところです。
1718年、萩藩藩主 毛利吉元が萩城三の丸追廻し筋に創建したのが始まりです。
1863年には藩庁の山口への移転によって、上田鳳陽が開設していた私塾山口講堂を「山口明倫館」と改称し藩校としたことで、萩・山口の両明倫館が並立することとなります。
ここ萩の「明倫館」では、吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允をはじめとする藩士が学びました。

「桂太郎旧家」も萩にあります。
桂太郎は、1848年生まれの長州藩の藩士で、明治維新後はドイツへ渡ります。
そして帰国に山縣有朋の下で軍制を学んで、陸軍次官、台湾総督などを歴任した後、伊藤・大隈・山縣の歴代内閣で陸軍大臣を務めます。
1901年には首相に就任し、日英同盟を締結し日露戦争では日本を勝利に導きます。
西園寺公望と交代で首相を務め、「桂園時代」と呼ばれていました。
こうして街を歩いていると、「藍場川」に放たれた錦鯉が美しく泳ぐ姿を目にします。
小川である「藍場川」沿いにある武家屋敷「旧湯川家屋敷」を、最後に訪れます。
川沿いには長屋門があり、屋敷の中には橋を渡って入っていきます。
主屋には玄関、座敷と茶室などが配置されています。
「藍場川」の水は屋敷内に引き入れ、流水式の池水庭園が水を溜めています。
この水を生活に使い再び藍場川に返すしくみは、藍場川沿いの民家として典型的な水の利用法を見ることができます。
春ののどかな1日を、ゆっくりと過ごすことができた城下町萩でした。
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