[旅の日記]
維新発祥の長府 
維新の発祥の地となった山口県の長府の町を、本日はぶらつきます。
JR山陽本線の長府駅からバスで向かいます。
バス停井の名前はずばり「城下町長府」です。
ここの観光会館から、街散策のスタートです。
観光会館の横を通る壇具川を川上に向かって西に歩いて行きます。
橋の架かっている所に「長府藩侍屋敷長屋」があります。
江戸後期の建築物で、長府藩家老の西家の分家にあったものです。
仲間部屋格子窓の造りなど、上級藩士の住居だということが判ります。
その南側には「旧野々村家表門」があります。
野々村家は代々毛利家に仕え、禄高130万石の御馬廻格の家柄です。
この門は、主柱に扁平な角柱、背後に角の控柱を建てた薬医門で屋根は桟瓦葺、扉は引戸です。
この様式は「御家中家作之定」に従ったものですが、長府に残る他の門に較べて大きなもので、このことが上級藩士の証です。
ここで少し戻って「維新発祥の地」の碑がある場所に向かいます。
長府は毛利秀元が城主として入府以来、武家屋敷の町として平和な藩政時代が過ぎて行きます。
ところが幕末になると、倒幕の拠点として大きく舵をとっていきます。
蛤御門の変、長州征伐と長州藩は激動の舞台の真ん中に立たされます。
そのころ藩の実権を握っていた椋梨藤太を中心とする俗論派は、功山寺に潜居していた三条実美をはじめとする五卿を太宰府に移送することで、事態の鎮静化を図っていました。
それを知った高杉晋作は、下関へ戻って奇兵隊に決起を促しますが、山県狂介に時期尚早と反対されます。
しかし晋作は吉田松陰の教え通り自分の志を貫くことを選択し、無謀と思われるような挙兵を決行します。
珍しい大雪のなか、1864年の功山寺における高杉晋作の回天の挙兵は実行されます。
それが引き金となり日本中が討幕の考えに傾き、やがて明治維新を迎えることになったのです。
長府が維新発祥の地として、世に高く評価されてきました。
それでは「乃木さん通り」を北に向かって歩いてみます。
鳥居の先には「忌宮神社」があります。
192年に仲哀天皇・神宮皇后が熊襲の征討にこの地を訪れ、193年に行宮豊浦宮を建てます。
また195年には秦の始皇11代の孫功満王が渡来して住みつき、当時は珍しい蚕の卵を奉献するのが豊浦宮です。
中世になると、火災により「忌宮」に合祀したことから、「忌宮神社」と呼ばれるようになりました。
長府毛利家の厚い庇護も受け、境内には歴代藩主を祀る豊功神社も置かれました。
その1筋北を入ったところに「乃木神社」があります。
長府藩士で陸軍大将として名を馳せた乃木希典を祀った神社です。
1849年に江戸麻布の長府毛利藩邸に生まれますが、10歳の時に長府へ帰り集童場で学びました。
この神社は1920年の創建で、境内には乃木夫妻の銅像や16年間過ごした乃木旧宅があります。
その先にも「本覚寺」「正円寺」と寺院が続きます。
特に「正円寺」は、天然記念物にもなっている大銀杏の木で有名な寺です。
ここで「忌宮神社」の先まで戻り、「長府毛利邸」を目指します。
「古江小路」と呼ばれる通りの両側には、石垣と土壁が静かで美しい町並みを作っています。
右手に見える「菅家長屋門」は、侍医であり侍講職を務めた菅家の門があります。
長府藩祖毛利秀元に京から招かれた菅家は、門前の広い空間と積石など武家の屋敷構えとは趣を異にした格式高いものです。

「古江小路」の突き当りを左に折れたところに、「長府毛利邸」の旗が揚がった屋敷があります。
長府藩の最後の藩主で元豊浦藩知事の14代当主毛利元敏が、東京から帰住して建てた邸宅です。
1903年に完成した10,000m2の敷地には、武家屋敷造の母屋が配置されています。
明治天皇が熊本での陸軍特別大演習に参加したときに使った部屋もあり、見学することができます。
それではここからさらに奥に入って行きましょう。
「功山寺」の石段を登り山門を潜ると、唐様建築の美しい仏殿があります。
鎌倉時代の創建で、元々は長福寺と呼ばれていたものを長府藩祖毛利秀元の菩提寺となってからは名を「功山寺」に改めました。
ここは毛利元就に追われた大内義長が自刃した場所でもあり、また幕末には高杉晋作が伊藤俊輔の率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊らとともに、わずか80人程度で挙兵した地でもあります。
境内には高杉晋作の像が建てられています。
またこの寺は長府毛利家墓所でもあり、坂本竜馬の護衛を務めた長府藩士三吉慎蔵もここで眠っています。
「功山寺」の隣には、毛利家や長州藩の資料を保管した「長府博物館」もあります。
時間が許せば、少し離れた「長府庭園」にも足を伸ばしたかったところですが、今回はここまでです。
これまでなじみの薄かった長府を、散策できた1日でした。
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