にっぽんの旅 中国 鳥取 米子

[旅の日記]

水運の街 米子 

 本日は鳥取県の米子に来ています。
JR山陰本線の鳥取で最も西にある駅で、島根との県境の町です。
JR米子駅の駅前広場には、天に向けて駆け登るSLのモニュメントがあります。
1902年に山陰地方で初めての鉄道が開通しまことを祈念した山陰鉄道発祥之地の像です。
駅反対側の東口には、型蒸気機関車C57の車輪も展示されています。

 ここからは中海に通じる新賀茂川沿いを歩いて行きます。
川沿いには石の彫刻が並んでいます。
川沿いに白壁の家が並ぶ風景を期待して、地図で駅近くで表示のあったここに来たのです。
しかしそのような風情ある景色はありません。
どうやら目的の場所はこの川ではないようです。

 新賀茂川が中海に流れようとしたところで、南北に走る県道に交差します。
ここからは北に向いて県道を歩きます。
地図からすると左手に見える小高い山の辺りが、米子城址があるはずです。
しかし見えるのは木々で覆われた山しかありません。
どことなく登山道のような人が入った後がありますので、ダメもとで山を登ることにします。

 といっても、これは間違いなく登山道です。
山頂目指して、ひたすら歩いて行きます。
すると道沿いにお地蔵さんがあります。
さらに進むとそこにもお地蔵さんが。
坂を登り続けると、お地蔵さんがが集まった場所が何ヶ所もあるのです。
金毘羅天を越えたところで、積まれた石が目に入ります。
この上にあるのは、間違いなく城のはずです。

 やがて目の前が開け、城の石垣が並んでいます。
別の方向から道があり、山頂に続いています。
どうやら裏道を登って来たようです。
山頂まで登りきると、そこには絶景を見ることができます。
遠くに雪を被った大山の山々が、その手前には米子の町が広がっています。
そして反対側に目を移すと、そこには中海が見えています。
360度の絶景は、苦労して登って来たからのご褒美です。

 そして足元は米子城の天守閣の跡で、土台となる石が並んでいます。
米子城は、1591年頃に毛利一族の吉川広家が築城したものです。
関ケ原の戦で敗れた広家は岩国に転封されますが、代わりに入城したのは駿府の中村一忠です。
城の改修を行い、完成したのは1602年です。
中村氏の後は加藤貞泰、池田由之と城主が代わり、1632年からは鳥取藩主席家老の荒尾成利が入り以降11代に渡って米子を治めます。
この場所には、四重の副天守閣をもつ五重の天守閣があったとされています。

 心地よい風を受け、全方向のパノラマに満足した後は、城跡を後にします。
登ってきた道とは異なる正規の登山道を降りて行きます。
ほぼ降り切ったところにあるのが、城で使っていた井戸の跡です。
立札がなければ、通り過ぎていたかもしれません。

 そしてその先には、旧小原家長屋門です。
小原家は米子荒尾家の家臣だった人物です。
木造茅葺の入母屋造り建物は、江戸時代中期に造られたものです。
今に残る武家建築で、この地に移設されたものです。

 ここでやっと街に降りてきました。
ここからは次なる目的地である米子市立山陰博物館を目指します。
博物館までは、ここから500mほど先です。

 1930年に建てられたレンガ造りの建物が、目指していた博物館です。
この洋館は、米子市役所として長く活躍してきました。
今では、米子城の資料やこの地方の民族品・生活用品が並んでいます。
その中でも特に気を引いたのが、木の机です。
小学校の頃の記憶が蘇ってきます。
やがて校舎は鉄筋に、机もスチールのものに入れ替わりますが、入学時の机は展示されているものそのものでした。
そのほかには、客車に掲げる「米子行き」のの行き先表示板など、これまた懐かしいものばかりでした。

 その博物館に掲載されている市内の地図で気付いたのですが、最初に訪れた川とは別に市内にはもうひとつの川があるようです。
それもこのすぐ近くにありそうです。
名前も賀茂川で、早速行ってみることにします。
その途中にも趣のある建物があり、それらを巡ります。

 旧賀茂川に架かる覚証院橋の上に、地蔵さんが並んでいます。
名前はそのままで、咲い地蔵と呼ばれています。
宮大工の彦租伊兵衛が、加茂川で亡くなった子どもたちの供養のため建てたもので、お地蔵さんを集め祠堂を建てたのが始まりです。
江戸時代の地蔵信仰が、こんな形で今に残っているのです。

 その先にある銀行を思わせるような洋館は、坂口合同ビルです。
坂口財閥旧本社で、1931年に建てられたものです。
昭和天皇陛下の全国行幸した際には、ここに宿泊されたと言われる立派な建物です。

 その隣には、坂口家住宅があります。
坂口家は、江戸時代に木綿問屋を営んでいた豪商です。
南北45mの広大な土地の周りに、母家、離れ、土間倉などが並びます。
道路沿いの母家は、切妻造の2階建てです。
当時の豪商の華やかさを見て取ることができます。

 その他にも歴史のある建物を巡りながら、到着したのが賀茂川中海遊覧船のりばです。
この辺りにも古い街並みが残っています。
川の向こうには白壁土蔵が並びます。
江戸時代の米子は商業都市として発展し、水運を利用した町づくりが行われてました。
水路が整備され、それに伴い荷物を備蓄しておく土蔵が建てられました。
最初は米子駅から間違って新賀茂川に出たのですが、この景気こそが求めていたものです。

 遊覧船のりばの前では、河童が出迎えてくれます。
加茂川には河童が出没してという伝説が伝わっています。
女性がトイレに行くと、厠の下から出てきてお尻をなでて逃げて行ったそうです。
その横には、水木しげるのカッバの三平もいます。

 今日は、米子の街を急いで回ってきました。
再び米子駅からJR伯備線で、帰りの途についたのでした。

旅の写真館(1)