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本日の旅は、世界遺産にも選ばれた石見銀山です。旅の写真館(1)
島根も出雲までは訪れるのですが、その先となるとなかなか行く機会に恵まれません。
今回その機会を得たので、足を延ばしました。
まず最初に訪れたのは、世界遺産センターです。
センターに入りまず目につくのが、歴代の銀貨です。
そして30kgの銀塊を抱えて、その重さを体験することもできます。
ここでは石見銀山の歴史と紹介や、銀の精錬方法などが紹介されています。
戦国時代後期から江戸時代前期にかけて栄えた日本最大の銀山が、ここ石見銀山です。
石見にやって来た周防の大内弘幸が、銀を発見したとも言われています。
その後はこの銀山を巡って領地の奪い合いが続くことになります。
ここから銀で栄えた大森も町までバスで向かおうとします。
世界遺産センターまで来るときに乗ったタクシーの運転手が言うには、頻繁にバスがあるとのことです。
その言葉を信じてバスの時刻を見ていなかったのですが、いざ乗ろうとすると次のバスは1時間後です。
そうです、田舎では1時間待ってもそれは「頻繁」なのでした。
大森まで歩いても20分ほどの距離ということのようですので、歩くことにします。
そこで地元の人に道順を聞いてみると、これまたしっくりこないのです。
「まだ大丈夫と思うが、マムシがいなければ良いが・・・」ってところです。
確かにバス通りを逸れた近道は、竹藪の中を突き切る道でした。
その後はバス通りに歩いて行くのですが、のどかな景色を見ながらの移動です。
そしてマムシに会うこともなく無事に、大森まで辿り着けたのでした。
観光ガイドで何度も風景写真を見ていたので、大森に着いたことはすぐに判りました。
それは、小川に3つの石橋が架かる五百羅漢です。
2棟の石窟の中にそれぞれ250体の石像が安置されています。
石像ひとつひとつが違った表情の顔をしており、どこかに自分の姿を見付けることができるそうです。
命がけの仕事であった銀山の採鉱で、命を落とした人々の霊を供養するため石像が彫られました。
石像はお釈迦様に従っていた500人の弟子のことで、石窟の中は静かな時間が流れています。
その五百羅漢の入場券は、道を挟んで向かい側にある羅漢寺で売られています。
羅漢寺にも寄って見ましょう。
本堂に向かって右手には弁財天が祀られている池があります。
この水でお金を洗うとお金が増えると言われ、ざるが置いてあります。
ここは硬貨を洗っていくことにします。でも、そう欲ぼけているのが駄目なのでしょうね。
ここからは銀の採掘現場を目指して、銀山地区を貫く道を奥に歩いて行きます。
途中にあった小学校は、柵もない開放的な大森小学校です。
校舎は木の板を張り付けた木造建物で、思わず写真に収めてしまいました。
どこか懐かしいもので、はるか昔の小学校入学時の光景を思い出してしまいました。
さらに歩いて行くと、左手の広場に2階建て高さの小屋のようなものがあります。
下河原吹屋跡で、銀精錬遺跡です。
砕いた鉱石に鉛を混ぜて銀を吸着させる灰吹法と呼ばれる精錬方法で使われたものです。
鉛と銀はその後灰を敷いた鍋で熱して、灰に鉛を浸みこませて残ったのが銀なのです。
目の前の小屋は、単なる掘立子屋ではない深い意味をもっているものでした。
この先は徐々に民家も少なくなってきます。
所々で数軒単位の民家の集まりを見ることができ、そこには田舎の風情があります。
そんな中に、清水寺山門なるものがありました。
中には不動明王と昆沙門天の像が祀られています。
そしてその先には佐昆賣山神社の社務所が道に面して建っています。
高橋家の表札が示すように、普通の民家の造りです。
先ほどの山門はこの佐昆賣山神社の山門を、1931年に清水寺と合併したことで移築したものだったのです。
歩いて行くと次第に民家もなくなり、道路左右の石の崖に穴が開いているのが見えます。
間歩(まぶ)と呼ばれるもので、鉱石を取るために掘った穴なのです。
至る所に穴が見られ、その中でも少し大きめのものとして、福神山間歩があります。
入口には柵が設置され中に入ることはできませんが、昔の工夫はこんなところにも銀を求めて身体を忍ばせ入っていったのでしょう。
さていよいよ間歩のひとつで広く知られている龍源寺間歩に着きました。
公開されている間歩はいくつかありますが、常時解放されているのはここぐらいです。
入場料を払い早速中に入ってみます。
手掘りで造ったごつごつした岩に空いた坑道を進んでいきます。
長さは600mにもおよび、江戸時代中期に掘られたもので1943年まで使われていました。
すぐそこの昭和の時代まで、実際に銀が出ていたということになります。
歩くことができる行動の左右には、横方向に向けたたくさんの小さな穴が貫いています。
堅抗で、排水や換気のために掘られたものです。
その他にも新たな銀鉱石を求めて試し掘りをしたひおい抗と呼ばれる穴も、そのまま残っています。
龍源寺間歩を歩いて体験し、再び地上に出てきました。
ここから大森に向けて戻って行きますが、龍源寺間歩からほど近いところの丘の上に神社があります。
先ほど社務所があった佐昆賣山神社の拝殿と本殿です。
長い石段を苔に足を取られないように、注意して登ります。
登り切った先にある拝殿は重層屋根で、天領特有のものです。
16世紀中頃に創建された神社で、精錬の神である金山彦命が祀られています。
そしてこの石段、登るのは良かったのですが降りるのは大変です。
幅が狭くて足を置くスペースが十分にありません。
おまけに前にこけようなものなら、階段を真っ逆さまに落ちていきそうです。
足を斜めに股を開いて、ゆっくり降りて行かなければならなかったのでした。
大森にかけて銀山で栄えた古い街並みが続きます。
渡辺家住宅は、今に残る武士の住居のひとつです。
この建物は1811年に坂本家住宅として建てられました。
清左衛門は1604年に銀山経営に携う役人として、この地に招かれます。
坂本家の子孫も代々銀山の役人として関わりましたが、2002年の国史跡に指定された時の持ち主の名前から今では渡辺家住宅と呼ばれています。
その後も民家が続きます。
なかにはシカの骨を並べる家もあります。
この山あいの町では、普通にシカやイノシシが出てくるのでしょう。
金森家は、江戸時代に郷宿を担ったひとりです。
この地区には6つの郷宿が置かれ、この地のやって来た人を宿泊させます。
鉱山と周辺の土地を管理することを代官が大森の豪商らに請負わせ、これを郷宿として社会のしくみとしていました。
金森家住宅は1850年頃に建てられたもので、茶室までを備えた宿だったのです。
宗岡家は銀山6人衆のひとりで、江戸時代以前から銀山開発に関わった武家の屋敷です。
主屋は切妻造、瓦葺の平屋建てで、離れ、土蔵をもちます。
納屋も復元され当時の姿が蘇えっています。
旧河島家は、1800年初頭に建築された代官所地役人の屋敷です。
銀山経営や銀山領内の支配を行ってきた武士です。
門の奥には上級武士らしく2階建ての大きな建物があります。
その先にある建物は、旧大森区裁判所です。
今は町並み交流センターとして銀山の歴史と暮らしの展示、紹介が行われています。
1888年に建設され、1890年に松江地方大森区裁判所となります。
大森にはこの裁判所だけでなく、役所、警察署、税務署、郵便局、銀行と行政を司る建物が整備されました。
館内では明治時代の裁判所の様子が復元ざれており、当時の裁判所の様子を見ることができます。
裁判所を出ると、そとにはゴツゴツした岩山があります。
ここが観世音寺です。
岩山の石段を登ると、その山頂に十六羅漢とともに本堂があります。
またここは大森代官所が銀山隆盛を祈願するための祈願寺です。
五百羅漢や羅漢寺を造った月海淨印が建立しました。
青山家は先ほどの金森家と同じく郷宿のひとつで、田儀屋と称していました。
地元の有力な商家だった田儀屋熊谷家の分家で、熊谷三九郎(初代の清六)が1823年に郷宿株を本家から継承しました。
代官所へ出向く村役人らが宿泊するしました。
白い漆喰の壁と赤色の屋根瓦で、大森では珍しい妻入りの造りの建物です。
そしてその北側には熊谷家があります。
熊谷家は代官所の御用達を務め、石見銀山御料で最も有力な商家でした。
鉱山経営、金融業、酒造業を営むだけでなく、郷宿も行っていました。
現在の建物は 1800年の大火後に再建されたものです。
そして珍しい御所雛を見ることができます。
御所の紫宸殿を模した御殿のなかに、3人官女を従えたお内裏様が飾られています。
その横には市松人形も飾り、裕福な家の様子であったことをうかがうことができます。
最後に訪れたのは、大森代官所跡です。
1815年建築の表門と門長屋が、今も残っています。
現在の建物は代官所跡地に1902年に建てられた旧邇摩郡役所で、石見銀山資料館として公開しています。
ここでは、石見銀山として残る資料や鉱石が展示されています。
今日は朝から1日かけて岩に銀山と大森の街並みを巡ってきましたが、帰りはここからJR大田市駅までバスで移動します。
駅では大田市のマスコットキャラクターらとちゃんが迎えてくれます。
ここから山陽本線に揺られて帰ったのでした。