にっぽんの旅 中国 岡山 高梁

[旅の日記]

備中の城下町 高梁

 本日は、倉敷からJR伯備線で行ける高梁です。
城下町 高梁を訪れてみます。

 高梁と言ってまず思いつくのが「備中松山城」です。
臥牛山山頂にそびえる「備中松山城」は、日本一高いところにある山城です。
冬場には城から眼下に雲海が広がり、天空の城としても有名です。
途中の駐車場までは車で進めますが、そこから先「ふいご峠」まではバスに乗り込みます。
峠から天守閣までは600mなのですが、そこまでの坂道はかなり辛いものがあります。
坂道と石段を20分以上登りつめ、やっと天守閣が見える場所までたどり着きます。
本丸南御門前の広場では、多くの人が弁当を広げ城を見ながら楽しんでいます。

 それでは天守閣の中に入ってみましょう。
既に高いところに位置する城だけに、天守閣自体は高くはありませんが、それは戦いを意識した城の造りになっています。
角材の格子を角を外側に出して、外からは見難く中からは外を見渡せる「武者窓」、鉄砲攻撃のための小さな穴をあけた「座間」など、至る所に守るための工夫が施されています。
山陰と山陽を結び東西の主要街道も交差するこの地は、交通の要所だっただけに激しい争奪戦が絶えず、目まぐるしく城主交代が繰り返されてきました。
「備中松山城」は、1240年に有漢の郷(現上房郡有漢町)の地頭に任ぜられた秋庭三郎重信によって、臥牛山の大松山に砦が築かれたことに始まります。
その後は小松山に移りますが時代とともに縄張りが変化し、1574年の「備中兵乱」では「砦二十一丸」と呼ばれた出丸が築かれたほどに、臥牛山一帯が一大要塞となっていたことがうかがえます。
当時の城主であった三村氏の没後は毛利、小堀、池田、水谷、安藤、石川、板倉と城主が目まぐるしく入れ替わり、現存する天守は1683年に水谷勝宗により修築されたものです。

 「備中松山城」の後は高梁の町に戻り、観光物産館を訪れます。
この辺りは「紺屋川」と、それに交差する下町から本町を結ぶ通り沿いに商家が並んでいます。
小物屋や両替商を行い、最後には醤油屋を営んでいた「池上邸」は、無料の休憩所となっています。
中には商家資料館としての醤油醸造の工程が展示されています。

 ここから「備中松山城」方面へ進みJRの踏切を越えた一帯は、武家屋敷が並びます。
再び「紺屋川」方向に折り返して行きます。
折田家、埴原家などの屋敷が並んでいます。
城を守るために、ここに武家屋敷を配置したものだと言われています。

 ちょうど「紺屋川」を越えた辺りに、洋風の建物が見えます。
1889年に建設された「高梁基督教会堂」です。
1879年に始まった高梁でのキリスト教布教活動は、新島襄(後の同志社大学の設立者)によって急速に進みます。
この教会は、信者の浄財によって建築されたもので、高梁の町にも近代化の波が襲ってきたときでもあります。

 どうです、高梁の町のプチ散策は。
季節もよく、楽しい散策になったのでした。

   
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