にっぽんの旅 中国 岡山 吉備津

[旅の日記]

吉備津の桃太郎伝説 

 本日は、岡山県吉備津でももたろうの足跡を追ってみます。
JR岡山駅からは、JR吉備線で約20分のところです。
山陽本線が黄色い車体に対して、吉備線は赤が特徴です。
もっとも最近は白い車体の電車も走っているようです。

 JR吉備津駅は、駅前が賑わっているわけでもないごく普通の田舎の小さな駅です。
駅前の道をまっすぐ進み、吉備津の集落に出てみます。
途中バス通りを越え、右手に神変堂を見ながら進みます。
本日の最初の目的地である「吉備津神社」への道が左手に分かれますが、そのまままっすぐ進みます。
ちょうどそこには、木と白漆喰が綺麗に塗られた蔵が建っています。
郵便局を超えた先でT字路にぶつかり、ここで初めて左に進路を変えます。
通りの両側には昔ながらの家が並び、中にはなまこ壁が施された家も残っています。

 やがて目に入ってきたのは、石鳥居です。
「吉備津神社」が目の前に迫ってきたことの証です。
次なるなまこ壁の建物を見付けますが、その道向かいが「吉備津神社」の山門になっています。
どうもなまこ壁の建物は、「吉備津神社」の旧社務所だったところのようです。
本殿までは長い廻廊を進んでいかなければなりません。
廻廊の途中には、三社宮やえびす宮などの宮社が並んでします。
そしてその先に拝殿と本殿はあります。

 「吉備津神社」は大吉備津彦大神を主祭神とする神社です。
大吉備津彦は孝霊天皇の第三皇子で、名を彦五十狭芹彦と言います。
山陽道に派遣された大吉備津彦は、弟の若日子建吉備津彦命とともに吉備を平定します。
1405年には後光厳天皇の命で、室町幕府3代将軍の足利義満が「吉備津神社」の再建を行います。
この再建で、入母屋造の屋根を前後に2つ並べためずらしい比翼入母屋造の本殿に、切妻造の拝殿をつながります。
この時の比翼入母屋造は、「吉備津造」とも言われています。

 そしてこの「吉備津神社」には、鬼退治神話が伝わっています。
昔、吉備国に温羅(うら)と言う名のものが、空を飛んでやってきました。
赤々と燃えるような髪をし、腕力があり性格は荒々しく凶悪そのものの大男です。
朝廷が討伐しようしますが、誰も温羅をやつけられずにいました。
そこで選ばれたのが五十狭芹彦命という男です。
命が射った矢は温羅が投げ返す石にことごとく打ち返され、命は苦戦を強いられます。
そこで命は一度に2つの矢を射ることができる弓を準備させ、放った矢のひとつが温羅の左目を突き刺します。
雉に姿を変えて山中に逃げる温羅を、命は鷹となって追いかけます。
すると今度は温羅は鯉に姿を変え、自分の左目から溢れ出た血が成す血吸川に逃げ込みます。
命は今度は鵜に変わって血吸川を逃げる温羅を捕えてしまいます。
ついに温羅は降参し、その時から命は吉備津彦命と呼ばれるようになったという話です。
温羅が住んでいたとされる「鬼の城」が北西の方向にありますが、車でないといけない山中なので今回は泣く泣く訪れることを見送ります。

 御釜殿の先の「吉備津神社」境内から外に出たところに、「宇賀神社」があります。
綺麗に整備された庭園には池が配置されており、その中の島に朱色の「宇賀神社」があります。
神社には石橋を渡ってお参りに行きます。

 ここから吉備津駅までは、また民家の中に走る東側の路地を進んでいきます。
駅までの途中に、京都の建仁寺を開いた栄西禅師誕生の碑が建っています。
13歳で比叡山延暦寺に登り、その後2回の渡宋を果たしています。
鎌倉では将軍源頼家の庇護のもと寿福寺が建立し、京都の建仁寺建立はその後の集大成とでも言えます。
広場は、栄西の業績を称える日本庭園となっています。

 吉備津駅から備前一宮駅まで、1駅だけ電車で揺られていきます。
備前一宮には「吉備津彦神社」があるのです。
先ほどの「吉備津神社」と名前が極めて似ていますが、祀っているのも大吉備津彦大神で「吉備津神社」と同じです。
駅から5分のところに、その神社があります。
鳥居を潜ると、左右に池が広がっています。
池の真ん中を貫く参道を進み、随神門を通って拝殿に向かいます。
ここも、ももたろう伝説の舞台です。
神社の背後には吉備の中山があり、この山全体が神の山として崇敬されてきました。
吉備津彦命もこの山に祈り、吉備の国を平定したと言われています。
班田に向かって手前右手に子安神社があり、その先には下宮、伊勢宮、幸神社、鯉喰神社、矢喰神社、坂樹神社、祓神社の七つの末社が1列に鎮座射しています。

 岡山からわずか20分とは思えないくらい静かな町で、ももたろう伝説にかかわる2つの神社を巡って来ました。
再び吉備津線に乗って、雑踏の岡山に「きびだんご」を買いに戻ることにします。

     
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