[旅の日記]
ベンガラの町 吹屋 
岡山県の山間、高橋駅から車で進むこと40分、そこに見たことのない町が広がっているのです。
そんな成羽町吹屋を訪れます。
上り下りの繰り返す道を半時間以上進み、吹屋に入って最初に目にする看板が「広兼邸」です。
庄屋であった二代目当主 広兼元治が1810年に築造した屋敷です。
小泉銅山とローハ(後述)の製造を営み、巨大な富を築きあげました。
780坪もの壮大な敷地が山裾に広がっています。
坂を登り、ひとつの部屋と言ってもおかしくないような木造の入り口を潜って敷地内に入ります。
そこには正面の本宅、離れ座敷と長屋を合わせると、50以上の部屋があります。
映画「八つ墓村」のロケ地としても知られいる城のような建物です。
訪れた時には、谷の向こうに見える広兼家所有の神社の年1回の公開期間でした。
「広兼邸」を訪れた客に対して、邸宅がもっともよく見えるところとして造ったもてなしの場所です。
大福と紅茶を頂きながら「広兼邸」を眺めるのでした。
「広兼邸」から吹屋の中心に向かいます。
道の途中に、「笹畝坑道」があります。
ここは807年に発見され、戦国時代には毛利氏と尼子氏で利権争いをした戦の記録も残る、「吉岡銅山」への坑道が残っています。
江戸時代には天領として幕府直轄地となり、明治に入ってからは泉屋こと住友家、福岡屋こと大塚家、そして1873年からは三菱財閥の三菱金属が経営を行い「日本三大鉱山」のひとつにも数えられました。
1972年に閉山しますが、黄銅鉱や磁硫鉄鉱を産出していた採掘現場の整備が行われ、1979年からは一般公開されています。
その先を車で進みます。
「ベンガラ館」は吹屋が誇る赤色顔料の資料館です。
先ほど訪れた大豪邸の持ち主 広兼元治も、ベンガラの製造で巨大な富を築きました。
インドのベンガル地方に由来して名付けられたベンガル(弁柄)は、吉岡銅山で掘り出される磁硫鉄鉱をもとにローハ(緑礬)から作られます。
鉱石を焼いて砕き、水洗いをして酸性分を抜き、最後に残った赤褐色の粉を乾燥して作る、根気のいる作業です。
その製造にかかわる建物が残されているのが「ベンガラ館」です。
この赤褐色の粉が、吹屋の街を繁栄させて来たのです。
さて、いよいよ吹屋の中心地に進みます。
と言っても、中心地である300mの通り沿いにしか家はありません。
駐車場に車を止め、町を散策しょう。
島根県の石見地方で生産される赤っぽい石州瓦とベンガラ漆喰の壁で、町全体が赤く色付く町です。
吹屋は日本唯一のベンガラの巨大産地として、繁栄を極めました。
そして各民家は、今でも人が住んでいるのです。
「郷土館」では、そんな暮らしぶりを見ることができます。
片山家の分家である角片山家の住宅です。
石州の宮大工の手で建築された入母屋造り平入りの二階建ての町家で、1879年に建てられました。
母屋の奥に進むと、そこには味噌蔵、米蔵があります。
「郷土館」の向かいには、片山家の本家である「旧片山邸住宅」があります。
屋号を胡屋と言うベンガラ製造を手掛けた、吹屋きっての豪商です。
腰高格子で飾った1階と、なまこ壁で仕上げられた2階と、意匠を凝らした贅沢な造りです。
ベンガラ株仲間を組織し、仲間の統制を取るとともに品質の確保を行い、吹屋のベンガラとしての確固たる地位を築いたのです。
本日の最後で最大の目的地である「吹屋小学校」を見に行きます。
赤い町並みからは200m離れたところに、小学校があります。
1873年創立の「吹屋小学校」は、1900年に木造平屋建ての東校舎、西校舎が竣工し、そして1909年に木造2階建ての本校舎が落成しました。
つい最近まで現役の校舎としては、日本最古の建物です。
2012年3月に最後の卒業式が行われ学校としての歴史を閉じましたが、資料館として開館する予定になっています。
土産物屋にはベンカラ焼の焼物が並んでいます。
春の陽気に誘われて訪れた吹屋ですが、山間ののどかな町で初めて来たのに親近感が湧くのでした。

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