にっぽんの旅 中国 広島

[旅の日記]

戦艦大和に出会う呉 

 JR呉駅にやって来ました。
ここには戦前から軍港で有名な呉港があります。
今でも横須賀、舞鶴、佐世保と並び、自衛隊の艦船が数多く停留しています。
そんな艦船を見に行きましょう。

 駅前には港町らしくスクリューが飾られています。
手作業で磨き上げたのか、やすりを当てた個所が波型の輝きをしています。
それでは駅の南側に移り、海に向かって進みましょう。

 駅から10分ほど歩いたところに、最上階がドーム状になった「呉港中央桟橋」があります。
向かって右隣には「大和ミュージアム」が見えます。
「呉港中央桟橋」からは、予約しておいた「艦船めぐり」に参加します。
呉港の中を艦船が直前で眺められるところまで、船で向かうことがでます。
船が艦船の停留している場所に向かうまでの間の海上では、船体が完成し船室が骨組みが組みあがったばかりの建設中の巨大船に出会います。
陸にはまだ塗装もしていない船が、ドッグに奥に格納されています。
造船業界は景気が良くなってきたのでしょうか。

 そんな建造中の船舶の間を抜けて、自衛隊の艦船が並ぶ「アレイからすこじま」の沖合に出てきました。
そこには6艇の潜水艦が並んでいます。
停泊中なのでハッチは開いていますが、軍事機密だけあってこの部分だけは緑のシートで覆い隠されています。
艦艇が番号を振られて識別できるようにしているのに対し、あくまでも敵に気付かれないように忍び寄る潜水艦は、その個体すら識別できないように一切番号は表示されていません。
そして潜水艦の後部には、大日本帝国海軍でも使われていた旭日旗がたなびいています。

 ふと陸地に目を向けると、そこには赤レンガの倉庫が並んでいます。
呉海軍工廠の前身である呉海軍造兵廠時代に建てられたもので、戦争中の空襲では被害に合いましたが修繕され、今でも民間の倉庫として使われています。

 潜水艦の奥には、多くの艦船が停泊しています。
「艦船めぐり」のクルーザは、これから艦船の近くに順に寄って見て行きます。
音響測定艦「はりま」が停まっています。
冷戦期の1980年代後半に、ソビエト海軍の潜水艦を監視するために造られた船です。
潜水艦の静粛性が向上するにつれてその動きを察知することが難しくなってきており、音を分析することによって敵の接近を感知するためのものです。
双胴船で甲板が1つになっている船で、横から見ると巨大さが判ります。
潜水艦の探知と情報収集が目的のため、対潜水艦用の武装は行っていません。

 その先には護衛艦「いなずま」と「さみだれ」です。
船首から艦首にかけて徐々に高くなっており、すらっとした姿をしています。
ミサイルを有し、各海域に派遣されて護衛任務をこなしています。

 「とね」は小型護衛艦で、沿海域における対潜水艦哨戒や迎撃を任務としています。
船尾にもミサイルが整備されており、対戦能力に長けています。

       

 「ぶんご」は後ろから見ると、ズングリムックリという表現がぴったりの船体をしています。
掃海母艦で、機雷敷設艦機能を持っています。
甲板は広く、ヘリコプターが離発着できる構造になっています。
また船尾には開閉する門扉を備えており、実用的な造りになっている船です。

 岸辺には、戦艦大和も建造したことのあるドッグが見えます。
方々にクレーンの腕が延び、大きな船を建造、整備することができます。
1隻の艦艇が横付けされていましたが、何か補修をしているのでしょうか。
「艦船めぐり」はわずか30分で終わり、あっという間の海の散歩でした。

 ここからは陸に上がり、本日の目玉である「大和ミュージーアム」に向かいます。
連休中とあって、ミュージーアムに入場するための列ができています。
列は日本第2の大きさを誇る大砲の前を通っており、並んだおかげでじっくりと大砲を見ることができたのです。
館内に入るとまず目に付くのが、「戦艦ヤマト」の10分の1の大きさの模型です。
模型といっても26.3mの大きさがあるものです。
「戦艦ヤマト」といえば大日本帝国海軍が建造した史上最大の戦艦で、当時の日本の最高技術を結集し建造されました。
戦艦としては史上最大の大きさで、攻撃には46cm主砲3基9門を備え、防御面でも対46cm砲防御を施し、日本が誇る最高の戦艦です。
館内には大和の偉大さを称える展示がされているとともに、作業の高効率化と徹底した工期管理を行った様子がビデオで紹介されています。
これはその後の日本のものづくりにも、活かされています。

 ここで大和が造られた時代背景を確認してみましょう。
第1次世界大戦の後、1922年にワシントン海軍軍縮条約、続いて1930年にはロンドン海軍軍縮条約が締結され、日本海軍の装備はアメリカ、イギリスの6〜7割までとすることが決定されていました。
日本は数の上では列強に勝つことができず、その活路を他国に勝る性能を有する戦艦を備えることに全勢力を注力します。
アメリカ海軍は、太平洋と大西洋を行き来するためにパナマ運河を通過していましたが、この運河の門の幅の33mを越える艦船を造ることができません。
日本は数で不利となる分を、主砲の大きさで取り返そうと巨大戦艦の建造を計画します。
おりしもロンドン海軍軍縮条約の失効を1年後に控えた1934年、アメリカ、イギリス海軍に対抗できる艦船を帝国海軍がもつことが急務とされていました。
相手国も条約失効で日本が艦船の建造に乗り出すことを警戒し、さらなる艦船建造策を打ち出してくることでしょう。
1937年に艦製造訓令が発令されると、5年後の完成を目指して大和の建造が開始されます。
呉海軍工廠の造船船渠での建造は極秘裏に行われ、造船所を見下ろせる所には板塀や屋根が設けられました。
性能値も意図的に小さく登録され、設計者たちに手渡された辞令ですらその場で回収される徹底ぶりでした。
最高軍事機密であったために、建造の様子を伝える資料の少ないことが残念です。

 大和は太平洋戦争開戦直後の1941年末に就役し、翌年に連合艦隊旗艦に編入され、1942年のミッドウェー海戦で初陣を迎えます。
ところがその後のマリアナ沖海戦、比島沖海戦はいずれも戦闘機が中心の対空戦闘となり、大和の威力を発揮することはありませんでした。
比島沖海戦中にサマール島沖で米護衛空母部隊と交戦し敵艦に対して行った砲撃が、大和が敵艦に向けて主砲を放った最初で最後となりました。
そして1945年4月5日、大和に海上特攻隊としての出撃命令が下ります。
目的地は沖縄で、既にアメリカ軍が本土決戦にために上陸を始めた場所です。
日本軍は、4月6日15時20分に出撃します。
旗艦大和の他、軽巡洋艦矢矧、そして駆逐艦の冬月、涼月、磯風、浜風、雪風、朝霜、霞、初霜から成る10隻です。
4月7日の8時40分、米軍の航空機の編隊を確認します。
12時34分に射撃を開始するものの、数多くの米軍機からの攻撃を受け2時間後の14時23分には奇しくも沈没が始めります。
大和の戦果は撃墜3機、撃破20機だったのに対し、沈没による被害は2498名にも及んだのです。
こうして巨大艦船「戦艦大和」は、その能力を発揮することなく海に沈んでいったのです。
10隻のうち日本に帰ってきたのはわずか4隻、今後の終戦に向かうことを占うように日本側の惨敗となったのでした。
そして8月15日、ついに終戦の日を迎えることとなるのです。
「大和ミュージーアム」には大和の他にも、特攻兵器「回天」や、零式艦上戦闘機六二型、特殊潜航艇「海龍」などが展示されています。

 「戦艦大和」の雄姿を見た後は、道向かいにある海上自衛隊呉史料館に寄ります。
通称「てつのくじら」で、実物の潜水艦「あきしお」が正面に飾られています。
それでは「あきしお」の下を潜って、館内に入って行きましょう。
自衛隊の歴史から始まり、掃海艇の活躍が紹介されています。
戦争のたびに世界中の海にばらまかれ終戦後は放置される機雷を、見付けては処理する気の遠くなるような掃海艇の任務が紹介されています。
上の階では自国開発に至る潜水艦の歴史、気付かれずに敵に近寄るための技術が展示されています。
そして、外から見えていた「あきしお」の館内も、実際に見学することができます。
全長76m、重さ2200tで速力20ノットの性能を持ち、1986年から2004まで実際に海上自衛隊で使用されていたものです。
狭く頭を打ちそうな通路を進み、寝るだけのスペースしかもつことのできない士官室のベット、それに艦長室や操舵室を見て回ります。

 さて戦艦と潜水艦の知識をつけたうえで、次に訪れるのは「旧呉鎮守府庁舎」です。
「てつのくじら」から10分余り離れたところになります。
そのせいなのか、ここには観光客の姿は無に等しい静かなところです。
門は閉ざされ、その奥に煉瓦造りの「旧呉鎮守府庁舎」があります。
今は「海上自衛隊呉地方総監部」として利用されているために、週末の限られた日にしか中に入ることはできません。

 次には「旧呉鎮守府庁舎」から北側に進んだところにある「入船山公園」に向かいます。
入口には、「呉海軍工廠造機部」の屋上に1921年に設置され終戦まで使用されていた時計が迎えてくれます。
坂を登って行くと、その先には「入船山記念館」があります。
古くからこの地には「亀山神社」が遷座していたのですが、1886年の呉港に鎮守府の開設を機に接収され軍政会議所兼水交社が建てられます。
その後は芸予地震により倒壊してしまったため、新たに1905年に「旧呉鎮守府指令長官官舎」を竣工します。
戦後はイギリス連邦占領軍の司令官官舎として没収されてしまいますが、その後は「入船山記念館」として一般にも公開されています。
記念館の中に入ると正面に洋館、そして奥は和館の造りになっています。

 軍港として栄えた呉の町、そしてそれが故に戦時中は空襲の標的にされることがしばしばで、数奇な運命を辿ってきた町です。
そんな町に「アイスもなか」があるので、食べてみます。
アイスクリームをパリパリの最中で挟んだもので、懐かしい「アイスクリン」を思い出させます。
包んでくれた袋も、いまどきのビニールではなく紙の袋。
茶色で筋の入った昭和の封筒と言えばピンと来る人もいるのかもしれませんが、逆に若い人にはかえって判らなくなるかも。
「アイスもなか」を片手に、この後も呉の町をぶらりと回るのでした。


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