にっぽんの旅 中国 広島 広島

[旅の日記]

原爆の記憶が生々しい広島 

 今日は広島市内の散策です。
第二次世界大戦で原爆の被害から復興を果たした広島の町を巡ってみます。

 広島に着くなり、是非寄ってみたいところがあります。
八丁堀の電停から少し歩いたところに「お好み村」はあります。
辺りには薄っすらとソースの臭いが漂っています。
名前の通り、広島のお好み焼き屋が集まるところです。
その1軒に入ってみます。
メリケン粉とキャベツを混ぜて焼く関西のお好み焼きと違い、広島は水で溶いたメリケン粉を鉄板に薄く敷きクレープのように焼きます。
その上に山のように積まれたキャベツですが、これが平たくなるまで火を通していきます。
その横ではそばを炒め、今まで焼いていたお好みに合わせます。
これに甘いソースをかけると、広島焼きのできあがりです。
キャベツがいっぱいで、野菜の甘みが口の中に広がります。
関西風とは違った、美味しいB級グルメです。
v  ここから「平和公園」に向かって歩いて行きます。
途中にある「袋町小学校」が、爆心地に近く今も残る被災した建物です。
野戦病院であり行方不明者の連絡場所となったこの小学校の壁に、家族の安否を尋ねる文字が残されています。
戦後は建物の補修で壁は塗り固められましたが、その後の調査ではがした壁や黒板の裏からは次々と当時の文字が発見されています。
「袋町小学校平和資料館」として、小学校の一角が解放されています。

 その近くの角にも、被災建物があります。
1936年に建設された「旧日本銀行広島支店」で、原爆投下持には1階と2階だけは鎧戸を閉じていたため、内部の大破は免れました。
そして強固なコンクリート造りの建物が幸いして、珍しく倒壊も免れた建物のひとつです。

 「旧日本銀行広島支店」から数筋離れたビルの前には、「爆心地」の碑があります。
1945年8月6日午前8時15分に、この場所の上空でアメリカ軍エノラ・ゲイ号が無差別殺戮のために投下した原子爆弾が爆発します。
多くの市民が巻沿いに合い、身体には火傷をそして爆風が建物をなぎ倒します。
また原爆の高熱が町を焼き払い、広島市街一瞬にして焦土と化します。
さらに原爆がもたらした放射能が人を死に追いやり、生き残っても癌や火傷の後遺症に苦しめられることになるのです。
そんな実態をもっと詳しく知るために、次は「平和記念資料館」に向かいましょう。

 「平和記念資料館」では、広島に落とされた原爆について当時の悲惨な状況や今なお残る後遺症が生々しく展示されています。
アメリカがナチスドイツの核爆弾の技術を習得し、密かに日本をターゲットに絞りいくつかの都市を目標にしていていました。
そのひとつが広島でした。 そして連合国ソビエトの日本参戦による焦りからアメリカが原爆投下に踏み切ったことが、如実に表現されています。
そして原爆によるきのこ雲とともに広島の町並みが一瞬にして消えてしまい、子供を抱えて立ったまま焼死した姿や、水を求めてさまいながら息絶える姿といった眼を覆いたくなるような事実を伝えてくれます。
原爆の後は放射能を多量に含んだ黒い雨が、広島一帯に降り注いだことが紹介されています。
そしてたとえ生き延びでも、放射能の後遺症で一生を苦しみぬく現実を、赤裸々にしかも正確に示しています。
原爆の熱で焦げてしまった弁当箱やお釜、それに真っ黒に焦げた痛いげな三輪車が展示されています。
原爆投下のためのどんな理由をつけたところで、未差別に市民を殺害したことは紛れもない事実です。
形は違いますが、ナチスドイツの収容所であったチェコのテレジーンに行ったときに味わったなんともいえない重苦しいいやな思いを、再び広島の地でも味わったのです。

 そしてその思いを秘めて、「平和公園」を歩きます。
「原爆の子の像」の周りには、原爆病で苦しみ病床で折ったもしくは病床に届けられた多くの折鶴が並んでいます。

「原爆死没者慰霊碑」は、その先に「原爆ドーム」を臨み正面には「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから」と刻まれた文字が印象的でした。
平和公園の北の端は、原爆投下の目標となったT字型の相生橋があります。
今は多くの車や路面電車が行き交っており、原爆を忘れたかのように普段と変わらぬ街の姿をしていました。
 相生橋のたもとには、爆心であるがために崩壊を免れた「原爆ドーム」が、今も当時と同じ姿で保存されています。
実は何度か広島は来ていますが、毎回訪れるのがこの「原爆ドーム」です。
そして今晩も、再びこの場所に来ることになるのです。
「原爆ドーム」はその姿を人々に伝え、恒久の平和を示すシンボルとして戦争の悲惨さを訴え続けています。
世界遺産にも登録されている建物です。

 原爆を一通り理解したあとは並木通りまで出て、その足で「広島城」に向かいます。
武田氏が安芸国守護としてこの地を治めていました。
戦国時代になると武田氏を滅ぼした毛利元就が、広島に入ってきます。
それまでの毛利氏の居城は吉田郡山城で、領土の争奪戦を繰り返す戦いに適した堅固な山城でした。
しかし天下が安定する天正末期には、これまでの防護を目的とした城造りから権力の中心として城下町を造り領国に商業を発展させる町造りに様変わりしていきます。
山間部に位置する山城である吉田郡山城は適せず、瀬戸内の水運が生かし海上交易路の要となる海沿いへ拠点を移すことの必要性に迫られるようになりました。
1588年には、毛利輝元が豊臣秀吉の招きに応じて小早川隆景らと上洛し、近世城郭の大坂城を目の当たりにします。
毛利輝元が1589年に築いた城が「広島城」です。
もちろん原爆によって破壊されてしまいますが、1958年に天守閣部分が再建されたのが現在の城です。
天守閣に登れば広島の町が一望できます。

 ここから広島駅には「広島電鉄」に乗って向かいます。
「広島電鉄」には、全国から路面電車が集まってきています。
しばらくは行き交う電車を眺めてみましょう。
北九州、大阪、京都で走っていた電車がやって来て、今でも現役で元気に働いています。
本当は肌色と緑の旧型の「広島電鉄」が見たかったのですが、なかなかやって来ません。
仕方がないので、今の(といっても1980年代製作の)「広島電鉄」の車両に乗りこみます。
車と一緒にゆっくりと進むにもかかわらず左右に大きく揺られる路面電車の乗車を味わったのでした。

 さて今晩は、広島が誇る牡蠣料理です。
広島は牡蠣の日本一の生産量で、日本の半分以上が広島県産なのです。
2位の宮城県を大きく引き離し、広島だけで宮城の3倍を出荷しています。
頼んでいた「牡蠣の土手鍋」を前に、鍋が煮えるまで待ちます。
市内を歩き回っただけあって、ビールが進みます。
やがて煮立った牡蠣は肉厚のジューシーな味わいで、これが海のミルクと言われる所以です。
鍋の次は、牡蠣フライです。
色々と牡蠣を味わった最後は牡蠣ごはんで、牡蠣三昧の夕食だったのでした。

     

旅の写真館(1) (2) (3)